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第187話 ベッドが一つ

 宿の部屋は狭かった。ベッドが一つ。窓が一つ。床板が軋む。壁に聖印の版画が一枚かかっているだけで、他に何もない巡礼者向けの簡素な部屋だった。


 ロウェナが杖を壁に立てかけて、ベッドの端に腰を下ろした。右足を伸ばして、膝の裏を手で揉んでいる。



「痛む?」


「平気さ。吸血族の血が入ってるからね、人間よりは回復、早いのさ」



 ヴィオラが窓際の椅子に座って帽子を外した。深紅の髪が肩に落ちて、長い耳が薄暗い部屋の中で影を作った。



「明日は人混みに紛れます。フードを深くかぶって、決して離れないでください」


「分かった」



 ロウェナが天井を見上げた。赤い瞳が宿の梁を追っている。



「あの男。教皇の顔を、見たことがない。結社にいた三年間、一度も」


「末端には見せないのです。教祖の顔を知っているのは内殿議会の者だけ」


「ああ。だから、見ておきたいのさ」



 ロウェナの声が小さくなった。帽子のつばを引き下ろして、表情を隠した。


 隣の部屋から、ミナの声が壁越しに聞こえた。



 何か言い争っている、いや、一方的にミナが怒鳴って、トールが「大丈夫っす」を繰り返しているだけだった。



 ロウェナが口の端を上げた。



「元気だねえ」



 ヴィオラが微かに笑った。


 私はノクスを膝の上に乗せて、窓の外を見た。聖都の方角に、大聖堂の尖塔が夜空に黒い影を落としていた。尖塔の頂上に、円い金属の紋章が月明かりを受けて鈍く光っていた。



「九聖章です」



 ヴィオラが窓の外を見て言った。



「九使徒の像を円環に配した紋章。大聖堂の象徴であり、教皇の首にも同じものが下がっている」



 明日、あの大聖堂で教皇が演説する。五十年間、民を救い続けてきた男が。結社の教祖が。


 ノクスの耳が窓の方を向いた。



「明日は見るだけだ」



 私は自分に言い聞かせるように呟いた。



「見るだけ、な」



 ノクスの金色の目が、大聖堂の影を映していた。子猫の瞳孔が細くなって、また広がった。



「嫌な予感がする」



「私も」



「なら帰ろう」



「帰れない」



 ノクスの尾が膝の上で一度だけ揺れた。諦めの尾だった。


 ヴィオラが窓を閉めた。ロウェナはすでに横になっていて、帽子を顔にかぶせたまま動かない。寝息とも呼べない静かな呼吸だった。


 ノクスの体を膝の上からそっと持ち上げて枕元に移した。子猫の体が丸まり、前足が鼻先を覆う。鈴が微かに鳴った。


お読みいただき、ありがとうございました。

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