第184話 地図の上の黒い点
王城の会議室に全員が揃ったのは、父王の国葬から十四日目の朝だった。長卓の上に広げられた大陸地図の北端に、カイルの指が置かれている。
神聖教皇国アルシェロン。白い紙の上に、大聖堂の位置を示す黒い点が一つ。
「教皇セレスティアス・ヴァロウン」
カイルの声が石壁に反響して消えた。
「結社の教祖が教皇だと分かった。だが、こいつを倒すには情報が足りなさすぎる」
窓から差し込む朝の光が地図の上を横切り、アルシェロンの国境線に影を落としていた。椅子の背に剣を立てかけたガーレンが、スキットルの蓋を親指で弾きながら口を開いた。
「大聖堂は要塞だ。聖騎士団が常駐している。戦力、配置、内部構造。何一つ掴めていない」
ヴィオラが地図の一点に細い指を添えた。
深紅の髪が肩から流れて、地図の上に赤い影を引いている。
「一つ、好機があります。年に一度の大巡礼祭。教皇猊下が聖都アルシスの大聖堂で演説なさる日です。民衆が数万人集まる。紛れ込むなら、あの日しかありません」
「いつだ」
「二週間後です」
カイルの指が地図を叩いた。乾いた音が一つ。
「行く。偵察隊を組む」
隣に座っていたシャルロットが椅子の背もたれに指を置いたまま、真っ直ぐカイルを見た。
「あたしは残るわ。即位式の準備が山積み。国政を止めるわけにいかない」
「シャロ、頼む」
「任せなさい」
シャルロットの声には迷いがなかった。宰相の椅子に座って三日で、彼女はすでに執務室の空気を自分のものにしていた。
「ルーシェは王城に残れ。研究室の移設がまだ終わっていない」
「フィオレは、王室の侍女に配属する。役目はリーラ付きだ」
フィオレの兎耳が、ぴくりと下を向いた。
「心配しなくていい。今まで通り、リーラのそばで世話を頼む。変わるのは肩書きだけだ」
下がっていた兎耳が、ぴんと立ち直った。先が、嬉しさに小さく震えている。
「はい。これからも、ずっとお側に」
カイルが一人ずつ指差した。
「偵察隊は俺、リーラ、トール、ミナ、ガーレン、ヴィオラ。六名」
壁にもたれていたロウェナが、杖の先で床を二度叩いて口を開いた。
「あたいも行くよ」
ミナが振り返った。
「まだ足、治ってないでしょ」
「歩けりゃ十分さ」
ロウェナが帽子のつばを上げると、赤い瞳が薄暗い会議室の中で光った。
「それにあの男の顔を、一度見ておきたい」
カイルの視線がロウェナに止まった。二秒ほど。
「いいだろう。ただし無茶はするな」
ロウェナが口の端を持ち上げた。
「あたいなんかを、心配したって、しょうがないさ」
カイルの眉が微かに動いたが、何も返さなかった。
七名。偵察隊の編成が決まった。
肩の上で、ノクスの前足が鎖骨の上をそっと踏み直した。子猫のサイズになってから体重は半分以下に減ったのに、居場所を確かめるように前足を動かす癖は変わらない。
「危ないな」
低い声が、耳元に届いた。
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「黙って」
ノクスの後ろ足が耳の後ろを掻く仕草。やれやれ、と言いたげだった。
ガーレンがスキットルの蓋を閉じた。飲まなかった。
中身があるのかも怪しい。
「国境を越えたら俺とヴィオラが先行する。大聖堂の外壁構造と聖騎士の巡回パターンを確認したい」
ヴィオラが頷いた。
「巡礼者に紛れれば、聖都の中までは入れます。ただし」
長い耳が帽子の縁から僅かに覗いて、すぐに引っ込んだ。
「私の顔を知っている者が、大聖堂にいる可能性があります。見つかれば不審に思われるでしょう」
トールが盾の縁を握り直した。
「じゃあヴィオラさんは帽子を深くかぶるっすね」
「そうですね」
ヴィオラが微かに笑った。
長い耳を帽子で隠す日々は、もう何年も続いているのだろう。
「出発は二日後の早朝。馬車を一台手配する。荷は最小限にしろ」
カイルが立ち上がった。椅子が石畳の上を引きずる音が響いて、会議が終わった。
全員が席を立つ中で、ロウェナだけが壁にもたれたまま動かなかった。杖を握る指が白い。
右足をかばうように左足に体重を預けている。ミナがロウェナの横を通り過ぎざまに、何も言わずに肩を貸した。
ロウェナが一瞬だけ目を見開いて、それからぶっきらぼうに肩に手を置いた。
「悪いね」
ミナが肩を貸しながら、小さな声で言った。
「あの時、リーラ姐さんとヴィオラさんを助けてくれたんでしょ。そんなになってまで」
ロウェナが帽子のつばを目深に引き下ろした。
「あたいが、好きでやったのさ」
「だから、ありがと」
ミナの声は短かったが、ぶっきらぼうなのは照れているからだ。
ロウェナの口の端が少しだけ上がった。二人が廊下に消えていく。
半年前には考えられなかった光景だった。
カイルが地図を畳んでいた。皺の入った紙を丁寧に折る指が、剣の柄を握る時とは別人のように慎重だった。
私は会議室に残っていたカイルに声をかけた。
「教皇国に入ったら、私たちは何者として振る舞うの」
カイルは地図を畳む手を止めずに答えた。
「巡礼者だ。大巡礼祭に合わせて北から入る旅人。ヴィオラが巡礼路の作法を知っている」
「巡礼者、か」
呟いて、窓の外を見た。
北の山脈が朝靄の向こうにぼんやりと白い稜線を引いている。あの山の向こうに、教皇がいる。
五十年間、善行を積み、民を救い、その裏で使徒を狩ってきた男が。
ノクスの尾が首に一巻きした。
子猫の体温が鎖骨の上にじわりと広がった。
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