第182話 「正装を脱いで」
王城の東翼にある朝食室を、朝日が白く照らしていた。長いテーブルの端に座ると、給仕が湯気の立つスープと焼きたてのパンを並べた。
隣の椅子にカイルが座っている。正装ではなく、革の胸当てに戻っていた。焔鱗の剣の柄が椅子の背に当たるたびに、黒い鱗の紋様が朝日を弾いている。
トールがパンを三つ頬張りながら「うまいっす」と言い、ミナが「行儀悪い」と肘で突いている。
ガーレンはスキットルの蓋を親指で弾いて、中身を一口含んでからスープに手を伸ばした。その隣でルーシェが眼鏡をずり上げながら手帳に何かを書き込んでいる。
フィオレが給仕に混じって皿を運ぼうとして、侍従に「お客様はお座りください」と止められていた。
兎耳が困ったように倒れている。ヴィオラが紅茶の湯気の向こうで静かに目を閉じている。
シャルロットは既に宰相の執務机に向かったらしく、席は空だった。
ロウェナの席も空だった。実家の医療院で療養中。右足の骨折と肋骨のヒビ。だが意識はある。
昨夜、ガーレンが容体を確かめてきて、落ち着いていると短く報告していた。
胸元でノクスが身じろぎした。子猫の前足がスープ皿の縁に伸びかけて、私が皿をずらした。金色の目が不満そうに細まったが、諦めたように丸くなり直した。
扉が開いた。車椅子の軋む音が、朝食室に響いた。ヴァーンが入ってきた。
車椅子の上で、体が小さく見えた。
だが、目は澄んでいた。昨夜の虚ろさはない。焦点の合った瞳が朝食室を見渡して、テーブルの端に座る弟を見つけた。
カイルが椅子を引いて立ち上がった。
「兄上」
ヴァーンの車椅子をテーブルの傍まで押したのは、付き添いの侍従ではなくカイル自身だった。車椅子の車輪が石畳の継ぎ目で引っかかり、カイルが片手で浮かせて通した。ヴァーンがカイルを見上げた。
「でかくなったな、お前」
「兄上は痩せた」
「三年、まともに飯を食ってなかったからな」
ヴァーンの口元がかすかに動いた。笑おうとして、途中で止めた顔だった。
給仕がヴァーンの前にスープとパンを並べた。ヴァーンが匙を手に取ったが、指が震えてスープの表面に波紋が立った。
カイルは見ていた。見ていて、何も言わなかった。ヴァーンが匙を置いた。
「カイル」
「はい」
「俺は、しばらく静養する」
ヴァーンの声は低かったが、よく通った。呪いに蝕まれて署名が震えていた男の声ではなかった。
「シャルロットに任せたんだろう。あいつなら大丈夫だ。俺が出しゃばる必要はない」
ヴァーンが自分の手を見下ろした。骨の浮いた指が、テーブルの上で微かに震えている。
「もし何か力になれることがあったら言ってくれ。貴族の顔と名前くらいは覚えている。それ以外は、俺のことは気にするな」
カイルの喉が動いた。
「兄上」
「昨夜の演説を、車椅子の上から聞いていた」
ヴァーンの目が、一瞬だけ潤んだ。
「あの声が、父上に似ていた」
誰も口を開かなかった。朝日がテーブルの上を横切って、空になったスープ皿の底を照らしていた。
カイルの拳が開いた。指が伸びて、テーブルの上でヴァーンの手に重なった。
「ありがとう、兄上」
ヴァーンの指が、弟の手を握り返した。震えていたが、力はあった。
「礼はいらん」
ヴァーンが目を逸らした。窓の外の朝日を見ている。声が低くなった。
「弟に頼むしか能がない兄貴を、許してくれ」
カイルの手が、ヴァーンの手を強く握り直した。何も言わない。言葉は要らなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締まった。テーブルの下で指を組んで、唇を噛んだ。泣きそうだった。泣いてはいけない場面だと分かっていて、それでも目の奥が熱かった。
胸元でノクスの前足が、鎖骨の上をそっと踏んだ。爪は出していない。
トールが鼻をすすった。ミナが肘で突いたが、今度は何も言わなかった。ミナ自身が、匙を持つ手で目元を拭っていた。
ガーレンは腕を組んだまま、窓の外に目を向けていた。ヴィオラが静かに目を開けた。紅茶の湯気が、長い睫毛の影に揺れていた。
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