第181話 ルグランドは私が守る
ガーレンが音もなく杯を掴んで、カイルの手から取り上げた。
「飲むな。匂いが違う」
低い声だった。元暗殺者の鼻が、毒を嗅ぎ分けていた。
会場が凍った。銀の食器を置く手が止まり、会話が途切れ、扇が閉じられた。
数百の目がカイルとガーレンに集まった。ワインを注いだ給仕の顔から、血の気が引いていた。
動いた。テーブルの間を縫って出口へ走り出した給仕の腕を、カイルが掴んだ。
椅子を蹴って立ち上がり、正装のまま二歩で追いついた。そのまま給仕の腕をねじって引き戻す。
外国使節たちが息を呑む音が重なった。正装のまま走る姿に、この男が三年間剣を振ってきた体であることが見えた。
給仕が膝を折った。もがいた拍子に袖が肘まで裂けていた。
前腕の内側に焼印が見えた。黒く歪んだ紋様。結社の印だった。
「ガーレン」
カイルが名前だけ呼んだ。ガーレンが給仕の腕を引き受けた。無言で広間の外へ連行していく。
シャルロットが即座に立った。
「厨房を封鎖。全給仕の身体検査」
声が広間に響いた。国葬の追悼晩餐で、新王の暗殺未遂。それに対する宰相の第一声が、指揮命令だった。
近衛兵が二人、厨房に向かって走り出した。カイルが広間の中央に立った。
蝋燭の光が静まり返った広間を照らしている。数百の目が、カイルだけを見ていた。
「今、私を殺そうとした者がいた」
静かで、怒りはなく、広間の隅まで届く平らな声だった。
「父上も、同じ組織に殺された。この国は、長く蝕まれてきた」
呼吸を一つ挟んだ。蝋燭の蝋が一滴、台座に落ちた。
「三年前、私は王城を出た。父と兄を救う手がかりを探すために。名を隠し、剣一本で大陸を渡り歩いた」
カイルの視線が広間を一度だけ巡った。使節たちの顔を見て、貴族の顔を見て、奥の席の市民の代表を見た。
「その旅の中で見たものがある」
声が少しだけ低くなった。
「街道の宿で、税が払えず店を畳む親子。国境の村で、魔獣に怯えながら兵の来ない夜を耐える老人。港で、行き場をなくした子供が物乞いをしている街」
広間の空気が変わった。追悼の席から、別のものに変わりつつあった。
「この国は。私がいない間に、壊れかけていた」
声が一瞬途切れた。カイルが膝の横で手を握りしめ、すぐに開いた。
「父上を救えなかった。兄上も病を患われた。助けることができなかった。その罪は、一生背負う」
拳が、もう一度握られた。今度は開かなかった。
「だが、兄上が私に王位を託してくれた。兄上が守り続けてくれたものを、私が継ぐ」
カイルが顔を上げた。蝋燭の光が瞳の中に入って、青灰色の目が燃えているように見えた。
「ルグランドは、私が守る。民の命も、この国の誇りも、何一つ奪わせない」
広間の空気が止まった。
「各国の使節の方々」
声色が変わった。
「ルグランドは変わる。だが、友邦との絆は変わらない。むしろ、今まで以上に強くしたい」
カイルが広間を見渡した。真っ直ぐに。逸らさない。あの目だった。
下層の路地裏で祠に干し肉を供えた男の目でも、串焼きを買ってきた男の目でもなかった。王の目だった。
沈黙が一秒続いた。サフィアル商務大臣が椅子を蹴って立ち上がった。
大きな体が揺れて、太い手が打ち合わされた。拍手だった。
教皇国の枢機卿代理が立ち上がり、南方使節団のカイウスが続き、東方ギルド連盟の代表も椅子を蹴った。拍手が重なった。
一人、二人、十人。立ち上がる者が増えて、椅子の脚が石畳を擦る音が連鎖した。拍手が広間を満たし、天蓋に反響し、止まらなかった。
「あの若さで」
貴族の老人が腕を組んだまま、隣に囁いた。
「三年も、お一人で旅をしていたのか。苦労されておるのだな」
「さすがロデリック陛下のご子息だ」
「いや、父王を超えるかもしれん」
手が震えていた。
さっきあの杯を飲んでいたら。
ガーレンが止めなかったら。
カイルは死んでいた。
それなのに、あの人は動じていない。自分の命ではなくて、国のことを話している。
毒を盛られた直後に立ち上がって、民の暮らしを語っている。あの不器用な男が、串焼きの持ち方を教えてくれた男が、今、数百人の前に立って国を背負っている。
――あの人の横に立ちたい。
言葉が浮かんで、形にならなかった。胸の奥で何かが膨らんで、喉まで来て、目から溢れた。涙がこぼれた。
悲しいのではなかった。誇らしかった。
拍手の音の中で、視界がにじんだ。指先で目尻を拭ったが、止まらなかった。
蝋燭の光がぼやけて、カイルの姿が滲んで、それでもあの人だけは見えていた。
隣にミナが立っていた。
小声で。
「泣いてるわよ、リーラ」
慌てて手の甲で目元を拭った。拭っても拭っても、止まらない。
ミナが少しだけ間を置いて、もう一度小声で言った。
「似合うと思うわ。あの人の隣」
顔が熱くなった。頬も、耳も、首筋まで全部。
拍手の音に紛れて、ミナの言葉が胸の中に沁みていった。
胸元で、子猫が一度だけ身じろぎした。金色の目がドレスの縁から私を見上げて、何も言わなかった。前足が胸の布を一度だけ踏んで、爪は出さなかった。
拍手が鳴り続けていた。蝋燭の光の中で、カイルが立っていた。あの人の影が長テーブルの上に伸びて、棺のあった場所まで届いていた。
父の棺はもうない。けれどカイルの影が、父がいた場所に重なっている。
――まだ、口にはできない。
でも足が動きたがっていた。あの人の隣に行きたいと、体が先に決めかけていた。
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