表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

181/236

第181話 ルグランドは私が守る

 ガーレンが音もなく杯を掴んで、カイルの手から取り上げた。



「飲むな。匂いが違う」



 低い声だった。元暗殺者の鼻が、毒を嗅ぎ分けていた。


 会場が凍った。銀の食器を置く手が止まり、会話が途切れ、扇が閉じられた。


 数百の目がカイルとガーレンに集まった。ワインを注いだ給仕の顔から、血の気が引いていた。


 動いた。テーブルの間を縫って出口へ走り出した給仕の腕を、カイルが掴んだ。


 椅子を蹴って立ち上がり、正装のまま二歩で追いついた。そのまま給仕の腕をねじって引き戻す。


 外国使節たちが息を呑む音が重なった。正装のまま走る姿に、この男が三年間剣を振ってきた体であることが見えた。


 給仕が膝を折った。もがいた拍子に袖が肘まで裂けていた。


 前腕の内側に焼印が見えた。黒く歪んだ紋様。結社の印だった。



「ガーレン」



 カイルが名前だけ呼んだ。ガーレンが給仕の腕を引き受けた。無言で広間の外へ連行していく。


 シャルロットが即座に立った。



「厨房を封鎖。全給仕の身体検査」



 声が広間に響いた。国葬の追悼晩餐で、新王の暗殺未遂。それに対する宰相の第一声が、指揮命令だった。


 近衛兵が二人、厨房に向かって走り出した。カイルが広間の中央に立った。


 蝋燭の光が静まり返った広間を照らしている。数百の目が、カイルだけを見ていた。



「今、私を殺そうとした者がいた」



 静かで、怒りはなく、広間の隅まで届く平らな声だった。



「父上も、同じ組織に殺された。この国は、長く蝕まれてきた」



 呼吸を一つ挟んだ。蝋燭の蝋が一滴、台座に落ちた。



「三年前、私は王城を出た。父と兄を救う手がかりを探すために。名を隠し、剣一本で大陸を渡り歩いた」



 カイルの視線が広間を一度だけ巡った。使節たちの顔を見て、貴族の顔を見て、奥の席の市民の代表を見た。



「その旅の中で見たものがある」



 声が少しだけ低くなった。



「街道の宿で、税が払えず店を畳む親子。国境の村で、魔獣に怯えながら兵の来ない夜を耐える老人。港で、行き場をなくした子供が物乞いをしている街」



 広間の空気が変わった。追悼の席から、別のものに変わりつつあった。



「この国は。私がいない間に、壊れかけていた」



 声が一瞬途切れた。カイルが膝の横で手を握りしめ、すぐに開いた。



「父上を救えなかった。兄上も病を患われた。助けることができなかった。その罪は、一生背負う」



 拳が、もう一度握られた。今度は開かなかった。



「だが、兄上が私に王位を託してくれた。兄上が守り続けてくれたものを、私が継ぐ」



 カイルが顔を上げた。蝋燭の光が瞳の中に入って、青灰色の目が燃えているように見えた。



「ルグランドは、私が守る。民の命も、この国の誇りも、何一つ奪わせない」



 広間の空気が止まった。



「各国の使節の方々」



 声色が変わった。



「ルグランドは変わる。だが、友邦との絆は変わらない。むしろ、今まで以上に強くしたい」



 カイルが広間を見渡した。真っ直ぐに。逸らさない。あの目だった。


 下層の路地裏で祠に干し肉を供えた男の目でも、串焼きを買ってきた男の目でもなかった。王の目だった。


 沈黙が一秒続いた。サフィアル商務大臣が椅子を蹴って立ち上がった。


 大きな体が揺れて、太い手が打ち合わされた。拍手だった。


 教皇国の枢機卿代理が立ち上がり、南方使節団のカイウスが続き、東方ギルド連盟の代表も椅子を蹴った。拍手が重なった。


 一人、二人、十人。立ち上がる者が増えて、椅子の脚が石畳を擦る音が連鎖した。拍手が広間を満たし、天蓋に反響し、止まらなかった。



「あの若さで」



 貴族の老人が腕を組んだまま、隣に囁いた。



「三年も、お一人で旅をしていたのか。苦労されておるのだな」


「さすがロデリック陛下のご子息だ」


「いや、父王を超えるかもしれん」



 手が震えていた。


 さっきあの杯を飲んでいたら。


 ガーレンが止めなかったら。


 カイルは死んでいた。


 それなのに、あの人は動じていない。自分の命ではなくて、国のことを話している。


 毒を盛られた直後に立ち上がって、民の暮らしを語っている。あの不器用な男が、串焼きの持ち方を教えてくれた男が、今、数百人の前に立って国を背負っている。



 ――あの人の横に立ちたい。



 言葉が浮かんで、形にならなかった。胸の奥で何かが膨らんで、喉まで来て、目から溢れた。涙がこぼれた。


 悲しいのではなかった。誇らしかった。


 拍手の音の中で、視界がにじんだ。指先で目尻を拭ったが、止まらなかった。


 蝋燭の光がぼやけて、カイルの姿が滲んで、それでもあの人だけは見えていた。


 隣にミナが立っていた。


 小声で。



「泣いてるわよ、リーラ」



 慌てて手の甲で目元を拭った。拭っても拭っても、止まらない。


 ミナが少しだけ間を置いて、もう一度小声で言った。



「似合うと思うわ。あの人の隣」



 顔が熱くなった。頬も、耳も、首筋まで全部。


 拍手の音に紛れて、ミナの言葉が胸の中に沁みていった。


 胸元で、子猫が一度だけ身じろぎした。金色の目がドレスの縁から私を見上げて、何も言わなかった。前足が胸の布を一度だけ踏んで、爪は出さなかった。


 拍手が鳴り続けていた。蝋燭の光の中で、カイルが立っていた。あの人の影が長テーブルの上に伸びて、棺のあった場所まで届いていた。


 父の棺はもうない。けれどカイルの影が、父がいた場所に重なっている。


 ――まだ、口にはできない。


 でも足が動きたがっていた。あの人の隣に行きたいと、体が先に決めかけていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ