第179話 女宰相の波紋
シャルロット・ド・ラヴェルンの宰相任命――その発表に、大聖堂のざわめきは、もう収まらなかった。
「宰相に、女を?」
最前列の右端で老いた貴族が身を乗り出し、隣の貴族が袖を引いた。後方の席でひそひそ声が重なり、扇で口を覆う夫人たちの列が波のように揺れた。
「前代未聞ですわ」
「ラヴェルンの娘が宰相? 紳士のお仕事ですのに」
左側席の外国使節たちも互いに目配せしている。サフィアル商務大臣が太い眉を動かし、通訳に何か尋ねていた。
左側三列目のラヴェルン侯爵が椅子の肘掛けを握りしめていた。隣の夫人が扇を口元に当てたまま動かない。
扇の向こう側で、唇が震えていた。
カイルの声が、ざわめきを断った。
「シャルロット・ド・ラヴェルンは、三年間、私と共に大陸中を駆け、この国を蝕んだ者たちと戦ってきた。今、宰相が務まる者は彼女しかいない」
シャルロットがカイルの後ろから一歩、前に出た。
黒いドレスの裾が石畳を引いた。背筋が伸びている。
顔に感情はない。宰相の徽章が胸元で蝋燭の光を受けて、静かに光った。
一言も発さず、ただ深く一礼して顔を上げた。それだけで十分だった。
ラヴェルン侯爵の腰が浮きかけて、戻った。夫人の扇が閉じられ、開かれ、また閉じられた。
侯爵夫人の声が、かすれて漏れた。
「あの子が、宰相」
カイルが視線を広間に戻した。
「正式な即位式は、後日改めて執り行います。準備はシャルロットに一任いたします」
短かった。弔辞から新体制の公表まで、カイルは長い演説をしなかった。
言うべきことだけを言って、声を止めた。
大聖堂の鐘が鳴り始めた。
低い音が石壁に反響して、棺の上の金糸を震わせた。
父が隣で動かない。
黒い正装の肩が少し強張っている。視線を感じて横を向くと、父の目がこちらに向いていた。
何も言わず、ただ、じっと見ている。
母が低く囁いた。
「リーラ。カイル殿は、立派になったわね」
「うん」
「あなたが支えてあげなさい」
「うん」
ノエルは来ていない。まだ、安全ではないから。
南方の祖母の家で、手紙を待っている。
――早く、あの子を抱きしめたい。
南方使節団の壮年の男。蒼月の紋章を佩いた軍服の男の視線が、一瞬だけ祭壇の上のシャルロットに向いた。シャルロットの目が、ほんの一瞬だけ、同じ方向を向いた。
軍服の男がわずかに頷く。シャルロットは前を向いたまま、唇の端だけが動いた。
あの視線の交わり方は、他の参列者たちとは質が違っていた。空気の密度が、二人の間だけ変わっている。
小声でミナに耳打ちした。
「ミナ、あの人」
ミナが視線を追った。シャルロット、蒼月紋章の軍服の壮年、理解した顔だった。
「ああ。あれが、シャロ姐さんの」
「多分そうね」
「いい男じゃん」
小声だった。
それ以上は言わなかった。国葬の最中だ。
軍服の男の隣の少年、十一歳くらいの、父親に似た眼差しの少年に、シャルロットの視線が一瞬だけ触れて、すぐに逸れた。
棺が運ばれていく。
黒い喪布をまとった六人の近衛兵が棺を肩に乗せ、大聖堂の中央通路をゆっくりと歩いた。金糸の双翼の獅子が、蝋燭の光の中を揺れながら遠ざかっていく。
カイルが棺に手を置いた。歩みに合わせて数歩だけ並んで歩き、手を離した。
最後に一言だけ、唇が動いた。
「親父。いままで、ありがとう」
大聖堂の後方までは届かない声だった。でも、最前列では聞こえた。
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