第177話 「お前に任せたい。宰相として」
王城北翼の一室に全員が集まった。ロウェナだけがいない。
右大腿骨骨折と肋骨のひび。実家の医療院に運ばれて、父が診ている。
命に別状はないが、歩けるようになるには時間がかかると聞いた。
長テーブルの上にガーレンが広げた王城の図面と、カイルが懐から出した大陸の地図が重なっている。蝋燭を三本立てて、窓は閉め切った。
カイルが立ったまま口を開いた。
「ロイスが死に際に言った名前を、もう一度整理する」
全員の目がカイルに集まった。
トールが盾を膝の間に立てて、ミナがその隣で腕を組んでいる。
シャルロットは椅子に座ったまま、右腕を吊った布が蝋燭の光に白く浮いている。
ガーレンがテーブルの端に腰を預けている。
ヴィオラが私の横で鱗杖を抱えている。
「教皇セレスティアス・ヴァロウン――」
一瞬の沈黙。
「ロイスは『ここは囮だ』と言った。王城の残党は陽動で、本体は教皇国にいる。教皇が教祖。正面から攻め込めば戦争だ」
ヴィオラが一歩前に出た。
「潜入ルートは確保できます。元々あの国の神官ですから。ですが、教皇ご本人に近づくとなると」
カイルが全員を見渡した。
「まず、この国を立て直す。父上の国葬を済ませ、俺は王として周辺国との外交に動く。教皇国に向かうなら同盟が要る。一国でやれる相手じゃない」
カイルの視線がシャルロットに向いた。
「国政の立て直しは、シャロ、お前に任せたい。宰相として」
部屋の空気が止まった。
シャルロットが一瞬黙った。
全員の目が集まっている。
蝋燭の炎が揺れて、シャルロットの白金の髪に影を落とした。
シャルロットの目が一度だけ遠くなった。
何かを思い出しているような、何かを確かめるような間があった。
「シャルロット・ド・ラヴェルンの、本当の人生、始めるわよ」
小さな呟きだった。
誰に向けたものでもない。
自分自身に言い聞かせるように、唇だけが動いた。
両手で自分の頬を叩いた。
乾いた音がテーブルに響いた。
それからまっすぐカイルを見た。目が据わっている。
「引き受ける。あんたは外で戦って。中のことはあたしがやる。この国はあたしが立て直す」
カイルの口元が緩んだ。
「こいつは貴族の嫁に収まるような奴じゃないと思ってたんだ。頼む、シャロ」
シャルロットの蹴りがカイルの脛を打った。
「誰が嫁に収まらないですって?」
蹴った反動で肩が揺れた。
シャルロットの顔が白くなった。
「っ、いたい」
吊った右腕を左手で押さえて、目尻に涙が浮いている。
トールが吹き出した。
ミナが腹を抱えた。
ガーレンがスキットルの蓋を弾き損ねて、テーブルに転がした。
ヴィオラが紅茶の湯気の向こうで肩を震わせている。
重い会議の空気が、一瞬で吹き飛んだ。
ミナがテーブルに身を乗り出した。
「でもさ、教皇が教祖って、教皇国ごと結社ってことなの? それとも教皇が一人で操ってるの?」
ガーレンが答えた。
「両方だろう。五十年かけて内部を汚染してきた。側近の何人かは知っていて従っている。知らずに使われている者もいるはずだ。教皇国全体が敵ではないが、味方の見分けがつかない。それが一番厄介だ」
ヴィオラが静かに付け加えた。
「ロイスの体にアヴェルナの欠片が埋め込まれていました。あの欠片をロイスに与えたのはセレスティアスです。教祖は古代の力を利用しています。禁呪の復元だけではなく、五千年前の封印すら道具にしている」
空気が張りつめた。
アヴェルナの欠片。
あの儀式場でロイスの右半身を蝕んでいた黒い影。
あれを手駒に与えられるということは。セレスティアスの手元には、もっと多くの欠片が、あるいはもっと危険な力があるということだ。
カイルが拳をテーブルに置いた。
「教皇国に向かうのは、準備が整ってからだ。まず国葬。それから即位式の段取り。周辺国への使者。同盟の打診。順番を間違えれば、教皇国に付け入る隙を与える」
トールが盾を握り直した。
「カイルさん。俺は、何をすればいいっすか」
「お前は俺の隣にいろ。盾が要る」
トールの背筋が伸びた。
「うすっ」
ミナがトールを横目で見て、小さく息を吐いた。
カイルが地図を畳んで、窓の方を向いた。
閉め切った窓の向こうに、夜明けの光が薄く滲んでいる。
カイルが低く呟いた。
「セレスティアス。次は、お前のところに行く」
ノクスが私の肩で小さく身じろぎした。
子猫の金色の目が、窓の向こうを見ていた。
尾の先だけが一度揺れて、止まった。
――教皇セレスティアス。
八番目の使徒。
私だけが知っていることがある。
ロイスの体に埋め込まれていた欠片の気配。
あれは五千年前に封印した存在の残滓だった。
まだ欠片が残っていた。
セレスティアスがそれを利用しているなら、教皇国の奥には――もっと深い闇がある。
言えなかった。言えば、なぜ五千年前の封印を知っているのかと聞かれる。
ヴィオラだけが私を見ていた。
赤い髪の下で静かに目を閉じ、何も言わない。
知っていて、黙ってくれている。
カイルが振り返った。
「国葬の準備に入る。全員、休めるうちに休め。明日から、忙しくなる」
全員が立ち上がった。椅子が石の床を擦る音が重なって、蝋燭の炎が三本とも揺れた。
廊下に出た。窓の隙間から差し込む朝の光が、石壁を薄く白く染めている。
カイルが私の横を通り過ぎる時、足が一瞬だけ遅くなった。
「リーラ」
振り向いた。
カイルの目はまだ赤く、頬に乾いた跡が残っている。
けれど目の奥に、決めた光があった。
「兄上を助けてくれて、ありがとう」
声が低くて、少し掠れていた。
「ドルクの武器がなかったら、ここまで来られなかった。ロウェナがいなかったら、ロイスの弱点に気づけなかった。全員がいたから、ここにいる」
カイルが一瞬黙って、それから口の端がわずかに動いた。
笑みとは呼べないほど小さな動き。
けれど、父王の部屋を出てから初めて、表情が人間の顔に戻った瞬間だった。
「ああ。全員がいたから」
そのまま歩いていった。
背中を見送った。
あの人の背中に、今、国一つ分の重さが乗った。父を失い、兄から王位を託され、次に対峙するのは、大陸中の信仰を束ねる男。
――あの人は、一人で背負おうとする。
胸の奥が詰まった。息を吸っても、うまく通らなかった。
ノクスの前足が私の鎖骨の上を一度だけ踏んだ。
「顔」
「うるさい」
「だらしない、とは言ってない。今回は」
ノクスの尾が一度だけ揺れて、止まった。
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