第175話 振り返らなかった
父王の部屋を出た。廊下の空気が冷たかった。
松明の火が壁に揺れて、石造りの天井に長い影を伸ばしている。カイルの目は赤く、頬に乾いた跡が残っていたが、歩く速度は落ちなかった。
振り返らなかった。振り返れば、あの部屋に戻りたくなると分かっていたのだろう。
トールが柱から額を離して、無言でカイルの後ろについた。ミナが唇を噛んだまま続く。
ガーレンが廊下の先を確認して、巡回の空白を指で示した。ヴィオラが私の隣に並んだ。
ノクスが私の肩で身じろぎした。子猫の体は軽いのに、今だけは重く感じた。
誰も、何も言わなかった。
カイルの背中を見ていた。あの人は、父の手が冷たくなっていくのを握りながら泣いた。声を殺して、誰にも聞かれないように。
けれど私は聞いた。鼻をすする音も、奥歯を噛む音も、全部。
ヴァーンを助ける。
カイルが角を曲がった。ガーレンの言った通り、北翼の巡回は南に向かっている。衛兵の足音が遠ざかっていく。
石壁に反響する革靴の音が消えるまで待って、カイルが短く頷いた。ヴァーンの執務室は、父王の寝室から二つ廊下を隔てた北翼の奥にあった。
扉の前でカイルの手が止まった。右手が取っ手に触れたまま動かない。指の関節が白くなっていた。
「カイル」
小声で呼んだ。
カイルの肩が一度だけ揺れて、そのまま扉を押し開けた。
執務室は広かった。両側の壁に書架が並び、机の上に決裁待ちの書類が積み上がっている。蝋燭が三本、燭台に立てられていたが二本はすでに燃え尽きて蝋が固まり、残り一本の炎だけが弱い光を落としていた。
その奥に、男が座っていた。ヴァーン・エル・ルグランド。ルグランド王国第一王子。カイルの兄。
椅子に背をつけたまま、書類の山に囲まれている。
右手にペンを握り、決裁の署名を書こうとしている。文字は震えていた。
インクが紙に散って、署名とは呼べない筋が一本走っただけだった。
目が虚ろだった。焦点が合っていない。蝋燭の光を受けているのに、瞳の奥が暗い。
カイルが一歩踏み込んだ。
「兄上」
ヴァーンの手が止まった。ペンを握ったまま、顔を上げた。
カイルを見ている。はずだった。
だが目が素通りして、その奥の壁を見ているような視線だった。
「どちら様でしょうか」
声に抑揚がなかった。丁寧で、冷たくて、他人に向ける声だった。
カイルの拳が震えた。
「兄上、俺だ。カイルだ」
「面会の予定はありません。お引き取りを」
ヴァーンの唇が微かに動いた。繰り返すように。呪いの下で三年間、同じ言葉を同じ口調で繰り返してきたのだろう。
体は動いている。政務も続けている。署名も書こうとしている。けれどその全てが、人形の動きだった。
ヴィオラが私の袖を引いた。瞳が金色に光っている。長耳の先が震えていた。
ヴァーンの手首を掴んだ。脈は弱いが、父王よりは拍動がある。爪の色も、皮膚の温度も、まだ生きている人間のものだった。
浸食は深い、だが、間に合う。
腰の革袋からヴェルガリオンの黒い結晶を取り出した。
父王の胸に置いた時は光がすぐに消えた。今度は、違ってほしい。
カイルが結晶を受け取って、ヴァーンの机の上に置いた。書類の山の隙間に、黒い結晶が蝋燭の光を受けて鈍く光った。
結晶が、反応した。淡い光が結晶の表面を走って、ヴァーンの手の甲に伸びた。ヴァーンの指先が微かに震えて、ペンが机に転がった。
生きている。体がまだ、触媒に応えている。
「ヴィオラ、結界を」
「はい」
ヴィオラが鱗杖を構えて、執務室全体を薄い結界で覆った。呪い解除の際に魔素が暴走すれば、廊下の衛兵に気づかれる。
結晶に手を添えた。指先から魔素を流す。
古代の詠唱ではない。触媒の結晶構造に沿って魔素の経路を整える、医者見習いの手技だった。
ヴェイン家で学んだ治癒補助の応用。
声を殺した詠唱は必要なかった。
この程度なら、ノクスの加護として偽装する必要もない。
結晶の光が強くなった。ヴァーンの体から黒い靄が立ち上り始めた。呪いが剥がれていく。
ヴァーンの体が椅子から崩れ落ちた。カイルが飛びついて兄の肩を抱え、床に膝をついたまま支えた。
黒い靄が執務室の空気に溶けていく。ヴィオラの結界がそれを受け止めて、外に漏れないように封じ込めた。鱗杖の先端が低く唸っている。
ヴァーンの目が変わった。虚ろだった瞳に、光が戻っていく。焦点が動いて、目の前にいる男の顔を捉えた。
「カイル?」
声が変わっていた。さっきまでの他人行儀な声ではない。
掠れて、震えて、けれど確かに、弟の名前を呼ぶ、兄の声だった。
「兄上っ」
カイルの声が裏返った。
ヴァーンの顔が歪んだ。目の奥で何かが崩れている。記憶が戻っているのだろう。
呪いの下で自分が何をしていたのか――三年間の署名、三年間の政務、弟の顔を見ても「どちら様」と返し続けた三年間。
それが一度に押し寄せて、ヴァーンの体が震え始めた。
「カイル、俺は……何をしていた」
「兄上、もう大丈夫だ。呪いは解けた」
カイルの声が震えていた。大丈夫だと言っているのに、言っている本人の声が一番震えていた。
「俺は。父上を。カイル、父上はどこだ。なぜ来ない。俺が――俺が遠ざけたのか」
カイルが答えなかった。答えられなかった。口が開いて、閉じて、喉が動いた。言葉が出てこない。
さっき父王の手を握って泣いたばかりの男が、今度は兄の前で言葉を失っていた。
ヴァーンがカイルの顔を見た。目の赤さ。頬に残った涙の乾いた跡。拳の関節が白くなるほど握り込まれた手。
答えなくてよかった。
弟の顔に、全部書いてあった。
「そうか」
ヴァーンの声が掠れて、消えかけた。顎が震えた。目が赤くなっていく。呪いから解放されたばかりの体で、最初に流した涙だった。
「俺が、殺したようなものだ」
「違う」
カイルの声が低く、強く割り込んだ。
「呪いだ。兄上のせいじゃない」
「署名したのは俺の手だ。父上を誰にも会わせなかったのも、この手で」
「兄上っ」
カイルがヴァーンの肩を掴んだ。
痩せた肩だった。三年で骨が浮くほど細くなった兄の肩を、剣を振り続けて太くなった弟の手が掴んでいた。
「俺は三年かけて帰ってきた。父上は間に合わなかった。でも兄上は間に合った。それだけでいい。それだけで」
声が途切れた。カイルの目から涙が落ちた。父王の部屋で声を殺して泣いた男が、今度は声を殺しきれなかった。
「ちくしょう、間に合ったんだ……よかった」
言葉になっていなかった。泣きながら笑おうとして、どちらにもなりきれない声が、執務室の天井に吸い込まれていった。
ヴァーンの腕がカイルの背中に回った。呪いで萎えた腕だった。力が入らない。それでも弟の背中を掴もうとして、指が正装の布を引っ掻いた。
「すまなかった、カイル」
「謝らないでくれ、兄上」
「すまなかった」
同じ言葉を繰り返していた。カイルが兄の背中を強く抱き直した。ヴァーンの指がカイルの肩を掴み返した。震えていたが、力はあった。
トールが執務室の入り口で盾を抱え、唇を噛んで動かなかった。ミナがトールの袖を掴んで、目を伏せている。頬を涙が伝って、止まらなかった。
あの人は三年間、この日のために走ってきた。城を出て、名を隠して、剣一本で大陸を渡り歩いて、やっとここまで辿り着いた。
父王は間に合わなかった。でも兄は間に合った。あの人の三年間が、たった今、報われた。
それだけで胸が一杯になって、悔しさと安堵が同時に押し寄せて、どちらも飲み込めなかった。
ヴァーンが立ち上がろうとして、カイルに支えられた。呪いで萎えた足では無理だった。それでもヴァーンは首を振って、カイルの肩に手を置いた。
「母上のところへ行く」
母后の居室は、執務室から廊下を一つ隔てた奥にあった。カイルがヴァーンを支えて歩き出し、振り返らなかった。私たちも追わなかった。
扉が閉まった。廊下に、かすかに声が漏れた。女の声だった。名前を呼ぶ声。それから何も聞こえなくなった。
長い時間、扉は開かなかった。
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