第174話 「血の匂いがする」
私は、石造りの階段を上がっていた。崩れた儀式場の奥から王城内の廊下に出ると、空気が変わった。
地下の湿った瘴気が消えて、古い石壁の間を乾いた風が通り抜けている。松明が等間隔に燃えていて、床の石畳に揺れる影を落としていた。
カイルが先導した。
ここは自分の城だ。その背中がそう言っていた。
ガーレンが教えた巡回の隙を縫って、北翼に向かう。角を二度曲がり、短い階段を一つ上がった。
ガーレンが歩きながら低い声で言った。
「ロウェナの右足は骨折。肋骨にもヒビが入っている。だが意識はあった。二人ともロウェナの部屋に寝かせてある」
ミナが隣で付け加えた。
「ロウェナは『付き添いなんかいらない、先に行け』って蹴り出してきたわ。シャロの横で見張ってるって」
目の奥が熱くなった。蹴り出す元気がある。シャルロットの止血も問題なかった。
「よかった」
声がかすれた。涙が滲みかけて、ヴィオラの手が肩に触れた。軽く、でも確かに。何も言わなかった。
カイルが前を向いたまま、短く言った。
「行こう」
北翼の廊下は、他の区画より静かだった。衛兵の足音が遠い。松明の火が規則正しく並んで、長い影を壁に落としている。
父王ロデリックの寝室の扉の前で、全員の足が止まった。重厚な樫の扉。金色の取っ手に埃が薄く積もっている。
食事を運ぶ侍従以外は誰も入れない。三ヶ月、この扉の向こうに父王は閉じこもっていた。
カイルの手が取っ手に伸びた。指が触れる直前に、一度だけ止まった。三年ぶりの父の部屋。
指先が震えていた。それを抑えるように握り込んで、取っ手を回した。
扉が開いた。
最初に匂いが鼻を打った。
薬草と、古い汗と、もう一つ――壊死が始まった肉体が放つ、甘く腐った匂い。
医者の家に育った私の鼻が、無意識に状態を読み取っていた。
部屋は暗かった。重い遮光の帷帳が窓を覆っている。寝台の横で蝋燭が一本だけ燃えていて、その光が父王の顔を照らしていた。
父王ロデリック・エル・ルグランドは、寝台に横たわっていた。
目は開いている。だが何も映していなかった。瞳が白く曇り、天井の闇を見ているのか、もう何も見ていないのか、区別がつかない。
顔は蝋のように白かった。頬が落ち窪んで、頬骨が浮き出ている。かつてこの国を治めた威厳の面影は、どこにも残っていなかった。
右腕に沿って、黒い筋が走っていた。血管の経路をなぞるように、手首から肘、肘から肩へと這い上がっている。呪いの浸食痕。三年間、体の内側を食い続けてきた証。
胸がほとんど動いていなかった。
呼吸のたびに、微かに、本当に微かに、掛け布が持ち上がって戻る。
私は寝台の横に座った。父王の手首に指を当てた。脈を探る。医者見習いとして、何百回も繰り返してきた動作。
弱い。遅い。脈の間隔が不規則で、一回ごとに力が抜けていく。心臓がもう、正しいリズムを刻めていない。
指先から伝わってくる情報を、頭の中で組み立てた。心拍の弱さ。皮膚の冷たさ。爪の青み。呼吸の浅さ。
――臓腑の壊死が進んでいる。
呪いが三年間、内側から蝕み続けた。肝臓と腎臓はもう機能していない。心臓も限界に近い。
ヴィオラが寝台の反対側に立った。鱗杖を構えて、過視を発動した。ヴィオラの瞳が一瞬、金色に染まった。
そしてすぐに。息を呑んだ。
長い耳の先が震えた。鱗杖を握る指が白くなるほど力が入り、唇が微かに歪んだ。
「リーラ嬢」
小声だった。カイルに聞こえないように、私だけに。
「お体が、もう、受け付けないのです」
ヴィオラの目が揺れていた。何かに耐えている顔だった。
「寿命の残量が、ほぼ」
言葉が途切れた。
「呪いを解いたら、お体を支えているものがなくなります。呪いが、もう、体の一部になっている」
ヴィオラが一瞬目を閉じた。開いた時、睫毛が濡れていた。指先がまだ震えていた。
私は一歩退いた。
カイルに、寝台の横を譲った。
カイルが膝をついた。父王の手を取った。両手で包み込むように。
大きな手だった。剣を振る手、師匠から受け継いだ手が、枯れ枝のように細くなった父の指を握っている。
「父上、俺だ。カイルだ」
父王の指が動いた。
握り返しているのか、痙攣なのか。分からなかった。
でもカイルの目が見開かれた。一瞬だけ、希望が灯った。
「俺、帰ってきた。兄上も、助ける。だから」
私はヴェルガリオンの黒い結晶を取り出した。布に包まれた結晶は、私の手のひらの中で鈍く光っていた。
あの骨塚で、私たちが倒したヴェルガリオンの心臓から取り出した触媒。ヴァーンの呪いを解くために持ってきたもの。
父王の胸元に、結晶をそっと置いた。結晶が微かに光った。
黒い表面に紫の筋が走って
消えた。
光が、すぐに消えた。結晶が反応する組織が、もう残っていない。
体の中に、触媒を受け止められるだけの生きた細胞がない。三年分の壊死が、全てを食い尽くしていた。
「効かない」
声が震えた。ヴィオラが目を伏せた。
「お体が、もう、受け付けないのです」
カイルの手が、父王の手を強く握った。
「父上」
父王の唇が動いた。声にならなかった。唇だけが形を作って、空気を押し出そうとしている。喉の奥から、掠れた息が漏れた。
カイルが耳を寄せた。父王の口元に、顔を近づけた。
「カイル、か」
聞こえた。掠れて、途切れて、でも確かにカイルの名前だった。
「父上っ」
カイルの声が裏返った。父王の白く曇った瞳が、一瞬だけ焦点を結んだ。目の前にいる息子の顔を、最後の力で見ようとしている。
「すまなかった」
呼吸の隙間から、言葉が漏れた。
「ヴァーンを、頼む」
父王の目から、一筋の涙が伝った。白い頬を滑り落ちて、枕に染みを作った。
手から力が消えた。
握り返していたのか痙攣だったのか。どちらであっても、もう分からなかった。
カイルの両手の中で、父王の指が弛緩して、ゆっくりと開いた。胸の動きが、止まった。
父王ロデリック・エル・ルグランド。
崩御。
カイルが動かなかった。父の手を握ったまま、膝をついたまま、寝台の縁に額を押し当てて、動かなかった。
私はカイルの背中に手を置いた。掌の下で、背中が震えていた。
「ちくしょう」
声を殺していた。誰にも聞かれないように。王子として。
肩が震えて、握った拳が寝台の掛け布を引き寄せて、しわくちゃになった。泣いていた。声は出さなかった。歯を食いしばって、顎の筋肉が浮き出るほど噛み締めて、それでも喉の奥から搾り出されるような音が、一度だけ漏れた。
私は手を離さなかった。カイルの背中に触れたまま、何も言わなかった。言葉では何も埋まらない。ただ、ここにいる。それだけを、手の温度で伝えた。
扉の向こうから、スキットルの蓋を弾く音が一度だけ聞こえた。ガーレンだろう。
それきり、廊下は静かだった。
ヴィオラが静かに父王の枕元に立ち、額に手を置いた。目を閉じて、唇が動いた。
古い言語。エルフの鎮魂の祈り。音にならないほど小さな詠唱が、蝋燭の炎を揺らした。
ノクスが私の肩から飛び降りた。子猫の体が寝台の端を歩いて、カイルの膝の上に乗った。小さな前足が、カイルの手の甲を一度だけ踏んだ。爪は出さなかった。
カイルの震えが、少しだけ小さくなった。蝋燭の火が揺れていた。
父王の顔は、もう苦しそうではなかった。三年間体を蝕んでいた黒い筋が、ゆっくりと色を失い始めている。呪いが、宿主を失って消えていく。
残されたのは、痩せた老人の穏やかな顔だった。
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