第173話 「来ないから、来たのさ」
あたいは天井の染みを見つめていた。鍵のかかった控え室。石壁に挟まれた細長い部屋で、窓はない。壁掛け燭台の火が一本だけ揺れている。
肋骨が軋んだ。右足は太腿の奥が焼けるように疼いて、ぴくりとも動かせない。ヴィオラの治癒術と吸血族の血がなけりゃ、今頃痛みで気を失ってるさ。
息を吸うと胸の奥で何かが擦れて、吐くと少し楽になる。
――静かだ。
瓦礫に埋まる直前、銀髪の子の体を横に押した感触がまだ手に残っていた。エルフの神官の体も。二人とも軽かった。自分が重かった。
天井の染みがぼやけた。目が霞んでいるのか、燭台の火が揺れているのか、どちらでもよかった。
――赤い瞳。
最初に覚えているのは、それだった。母はあたいを産んですぐ死んだ。父は吸血族だった。
残されたのは赤い瞳だけで、顔も名前も知らない。消えた男の置き土産が、この目だ。
人間の街で赤い瞳の子供がどうなるか。答えは簡単だった。
石を投げられ、「化け物」と呼ばれた。
どの街でも同じだった。孤児院にも入れてもらえなかった。
「忌み目の子は引き取れない」。
門番が扉を閉めて、鍵の音がした。あたいは門の前でしばらく立っていた。何を待っていたのか、もう覚えていない。
野良犬と同じだった。残飯を漁って、路地裏で眠った。冬は壁と壁の隙間に体を押し込んで、自分の膝に顔を埋めて朝を待った。
人間じゃなかった。かといって吸血族でもなかった。何者でもなかった。
――十四の冬。
凍死しかけていた。雪が降る路地裏で膝を抱えて動けなくなり、指先の感覚はとうに消えている。もう少しで眠れる、と思った。
「立てるか」
声がした。頭の上から。フードを被った男が手を差し伸べていた。大きな手だった。
「お前は特別だ。お前の力が必要だ」
初めて屋根の下で眠った夜、暖かいスープを飲んだ。塩の味がした。涙が出た。泣いたのか、味が沁みたのか、今でも分からない。
初めて「居場所」ができた。
赤い瞳を笑わず、名前を呼んでくれた。
「ロウェナ」
あたいに名前をつけたのは、その男だった。
「長」と呼ばれていた。
結社の幹部。あたいを拾って、育てて、任務を教えた。
初めて人を殺したのは十五の冬だった。裏路地で、結社に楯突いた情報屋の喉を短刀で裂いた。血が手に温かくて、匂いが鼻の奥に張りついて、路地の壁に背をつけて吐いた。
戻ったら、長が頭を撫でてくれた。
「お前がいなきゃ出来なかった」
必要とされている。それだけが支えだった。
結社が言う「新しい世界」を信じた。
力ある者が導いて、人族も獣人も吸血族も壁のない世界を作る。あたいみたいな半端者にも居場所がある世界を。
六年。
腕を買われて中堅まで上り詰めた。
使い捨ての駒じゃない。自分の意志で尽くしていた。
ここがあたいの居場所だと、本気で思っていた。
――十八の夜。
長の部屋に呼ばれた。いつもと違う目をしていた。部屋に入った瞬間、空気が違った。
酒の匂いがした。長は飲まない男のはずだったが、卓の上に瓶が二本、倒れていた。
「座れ」
座った。長の手が伸びてきた。頭を撫でるいつもの手だった。
でも指が髪の中に入って、耳の後ろに回って、首筋に触れた。瞬間的に身を引いた。
「まだ早かったか」
長は笑って手を引いた。それだけだった。
翌日から何事もなかったように振る舞った。
頭を撫でて「よくやった」と言ってきた。
でもあの手の意味が変わっていることに、あたいは気づいていた。
それから二年、自分に言い聞かせた。あの夜は酔っていたんだ、疲れていただけだと。いつもの長に戻ったじゃないか、頭を撫でてくれるじゃないか。
半分は信じていた。残りの半分は、信じたかっただけだった。
――二十の冬。
二度目は力ずくだった。拒絶して椅子を蹴り、長の手首を掴み返した。
長がキレた。拳が頬を打った。壁にぶつかって、口の中に血の味が広がった。
「お前を拾ったのは、俺の好みの女に育てるためだ」
笑っていなかった。目が据わって、酔ってもいなかった。
「教えてやるよ。お前が六年守ってきたもんの正体を」
人族新世界主義。人族以外を全て排除する新世界。獣人もエルフも吸血族も全部消して、神を殺す。世界の秩序ごとひっくり返して、人族だけの世界を作る。
「お前みたいな半端者は、新しい世界じゃ生きていけねえよ」
長の目が笑っていた。
「俺の恩を忘れたのか? 恩を返せ。今すぐ」
全部、同じ夜に壊れた。
「父親」も「居場所」も「愛情」も、全部嘘だった。
あたいが殺してきたのは、あたいみたいな奴を全部消すためだった。自分の処刑台を、自分で組み立ててたんだ。
長を殺した。あの手で頭を撫でてくれた男を、あたいの手で殺した。
短刀が肋骨の隙間を抜けた感触は、初めて殺しに手を染めた十五の冬と同じだった。血が温かかった。
結社を飛び出した。追っ手もしばらくあったが全部殺した。そこから二年間、一人で結社を潰して回ったが、焼け石に水だった。
人が信用できなくなった。でも一人じゃ結社は潰せない。仲間が要るのに、信じるのが怖かった。
見つけたのは偶然だった。銀髪の女と、剣士の男。港町の裏通りで結社の手先を蹴散らしていた。
長い間、遠くから観察していた。強かった。
でもそれだけじゃなかった。互いの名前を呼んで、怪我をすれば駆け寄って、背中を預けて笑っていた。人間も獣人も関係なく。
結社とは違う。
あいつらは駒を使い捨てないし、名前を呼んで心配する。信用できそうだった。
でも怖かった。また騙されるんじゃないかと思うと、踏み出す足が止まった。あの痛みをもう一度味わったら、今度こそ立てない。
だから距離を取った。
「気まぐれ」を装って伝言だけ残して消えた。
近づきすぎないように。
肋骨が痛んで、天井の染みがぼやけた。
――さっき、あの子が泣いていた。
銀髪の子が、あたいの名前を呼んで泣いていた。瓦礫を掻き分けようとして、男に止められて、それでも叫んでいた。
「ロウェナさん! 嘘でしょ。助かったのに」
結社じゃ、誰もあたいの名前を呼んで泣いたりしなかった。駒が一つ消えるだけだった。壊れた道具は捨てて、次のを補充する。それだけだった。
あの子は、違う。死ぬわけにはいかない。あの子たちが戻ってくるまで、ここで待ってる。
燭台の火が揺れた。肋骨の痛みが鈍くなっていく。
目を閉じた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




