第171話 教皇セレスティアス・ヴァロウン
崩れた瓦礫の向こうから、トールが目を覚まさないシャルロットを抱えて立っていた。私はそのトールへ駆け寄った。
トールの腕からシャルロットを受け取って、床に横たえた。肩の傷口に手を当てた。
貫通している。だが骨には達していない。動脈も外れている。
腰の革袋から止血の薬草を取り出して傷口に押し当て、布できつく巻いた。
脈を取った。弱いが安定している。呼吸も浅いが途切れていない。
「大丈夫。出血は止まった。気絶してるだけ」
トールの膝から力が抜けた。
砕けた左膝が床を打って、そのまま座り込んだ。
「よかった」
ロイスがいた場所。影は消えていた。壁にもたれて座り込んでいる人の形。
異形の面影はどこにもなかった。ただの、老いた男の体だった。
端から灰になっていく。白くなった髪が、粉塵の中で微かに揺れていた。
カイルが一歩、踏み出した。焔鱗の剣を鞘に戻し、素手のまま灰になりつつあるロイスの前に膝をついた。
瓦礫が砕けた儀式場の床には黒い煤が一面に積もり、カイルの膝が沈むたびに小さな灰の雲が立った。
「教祖の名前を言え」
低く、静かな声だった。怒りでも憎悪でもない。ただ、知らなければならないという確信だけで喉を押し開けた声。
ロイスの唇が割れて、音が漏れた。笑おうとしていた。
「遅い。もう、遅い」
血の混じった息が白く霞んで、灰の中に溶けた。
「教祖様は、もう動いておられる。ここは囮よ」
カイルの拳が膝の上で握り込まれた。指の関節が白くなるまで力が入っているのに、声だけは変わらなかった。
「名前を言え」
ロイスの目が泳いだ。
焦点が合わない瞳の奥で、何かが、信仰が、恍惚が、最後の炎のように揺れている。
「セレスティアス様」
唇の端が持ち上がった。崩れかけた頬の皮膚がぱりぱりと裂けて、灰が零れた。
「教皇セレスティアス・ヴァロウン、五十年、大陸を動かしてきた……お方だ」
空気が、止まった。
教皇。その二文字が儀式場の残骸に反響して、黒い壁に吸い込まれて消えた。
私の背筋を冷たいものが這い上がった。
教皇国のトップ。大陸最大の宗教権威。
神官の合議制を束ね、九使徒信仰の聖典を管理し、三カ国の外交に影響力を持つ。あの男が。
隣でヴィオラの指先が鱗杖を握り直す音がした。微かだったが、指の骨が軋むほどの力が込められていた。
ガーレンの呼吸が一瞬止まり、すぐに戻った。トールがシャルロットの手を握ったまま、震えていた。
シャルロットの指が動いた。トールの手を握り返すように、微かに。
「うるさい、のよ。あんたたち」
目は閉じたまま、唇だけが動いた。声は掠れて、ほとんど聞こえなかった。
トールの目が見開かれた。
「シャロ」
「肩が、痛い。あと、頭」
片目だけ薄く開いた。焦点が合っていない。止血の布が肩を覆っていて、右腕はだらりと下がったままだった。
「動かないで。肩、穴が開いてるの」
私が言うと、シャルロットの片目がこちらを向いた。
「聞こえてた。教皇、って」
それだけ言って、また目を閉じた。気を失ったのではなく、痛みに耐えているのが、噛み締めた唇でわかった。
カイルが立ち上がった。
「嘘だろ」
声が掠れていた。
教皇。
大陸の信仰の頂点。
父を侵食し、兄を操り、王城に残党を送り込んだ男は。神に最も近いはずの椅子に座っている。
ロイスの体が、膝から崩れた。壁を支えにしていた背中がずるりと滑って、座り込む形になった。もう足がない。腰から下は灰に変わっていた。
「嘘ではないよ」
ロイスの声が薄くなっていく。空気に溶けるように。
「お前たちが、ここで何人殺しても、教皇猊下の御計画は」
最後の言葉は音にならなかった。唇が動いただけだった。
ロイスの体が灰になって崩れた。風もないのに、灰が舞った。儀式場の黒い天井に向かって、ゆっくりと、音もなく。
壁にもたれていた場所には、灰の山だけが残った。人の形をしていたものが、もう形を失っている。
カイルが拳を握ったまま、灰の山を見下ろしていた。
「セレスティアス、教皇」
私はカイルの横顔を見ていた。顎の筋肉が浮き出るほど噛み締めている。
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