第168話 「来たか、偽りの王子」
崩落が止まった。埃が喉に張りついて、咳き込むと肋骨の裏が軋んだ。耳がまだ痺れている。崩落の衝撃が抜けきっていなかった。
瓦礫の壁が儀式場を真ん中で断ち切っていた。天井近くまで積み上がった石と鉄格子の残骸の向こう側に、カイルとトールとシャルロットがいるはずだった。
向こうから音が届いた。焔が空気を噛む音と、金属が打たれる重い衝撃。戦っている。
「ミナ、右!」
ガーレンの声が低く飛んだ。
足元の床から影が滲み出すように湧いた。黒い塊が形を成す前にミナの竜鱗の短剣が核を割り、飛び散った影がヴィオラの結界に当たって霧散した。
「まだ湧くの? きりがないわね!」
ロウェナが壁際から黒弓を引いた。弦を離す音がしない弓だった。矢が暗闇の中を走り、柱の陰から這い出した影の魔物の頭を貫いた。
赤い瞳が帽子の陰で光っていた。暗がりの中で、正確に核を射抜いていく。
肩の上でノクスの毛が逆立った。金色の目が開いて、迫ってきた影の魔物に向かって肩から跳び降りた。小さな体が影に触れた瞬間、弾け飛んだ。
唇だけで、声にならない一音。ノクスの動きに合わせて魔力を流した。周りから見れば、ただの子猫の動きにしか見えない。
ロウェナが振り返った。帽子を押し上げて、子猫を見下ろしている。
「あの猫、何者さ?」
ノクスが前足で床を踏み直した。金色の目がロウェナを見上げて、途切れ途切れの声を絞り出した。
「猫じゃ、ない」
息が止まった。声。掠れて途切れ途切れで、前の低い響きとは全然違う。
でも、声だった。
子猫になってから、初めて。ずっと怖かった。このまま声が戻らなかったら。もう二度とノクスと話せないまま終わるのかって。毎晩、肩の上の小さな寝息だけを聞きながら、ずっと。
目頭が熱くなったけど、戦闘中だから堪えた。
ヴィオラが鱗杖を構え直してこちらを見ていた。深紅の髪が埃で白っぽくなっている。
長耳の先だけが微かに動いて、微笑んだ。
何も言わなかった。気づいているのだろう。ノクスの動きに私の魔力が混じっていることに。
最後の影が散った。
床の魔法陣の光が消えて、右側は静かになった。
静かになった分だけ、瓦礫の向こうの音が際立った。盾が叩かれる重い衝撃音。焔が唸る音。シャルロットの剣風。
カイル。
瓦礫の壁は崩せない。崩せば向こうの三人を巻き込む。力を使えば壁ごと消せるが、全員の前で正体が割れる。
歯を食いしばった。それでも、ただ祈るのは性に合わない。
いちばん危ないのは、あの男が死ぬ瞬間だ。アヴェルナの欠片を抱えた体は、絶命する時に必ず暴走する。封じていた力が一気に溢れて、四方に吹き荒れる。壁の向こうだけじゃない。この瓦礫ごと、こちら側まで巻き込まれる。
ガーレンの傷を布で締めながら、低く言った。
「あの化け物が倒れる瞬間が、本当の山場。死に際に暴走して、こっち側まで吹き飛ぶ。来たら、何より身を低くして。誰も、一人にならないで」
「物騒な予言ね、姐さん」
ミナが短く笑って、それでも身を低くした。
守れるものは、守る。それだけは、外さない。
瓦礫の向こうで、カイルの声が響いた。
「相棒。時間をくれ」
トールの返事は聞こえなかった。代わりに盾が床を打つ音がして、それきり向こうは焔と金属の音だけになった。
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