第167話 偽りの王子
闇の中から、声が響いた。
「来たか、偽りの王子」
カイルの体が動いた。剣が鞘を離れる金属の擦過音が闇を切り裂いた。
「この声」
「覚えていてくれて光栄だ」
声は低く、滑らかだった。闇の中で位置が掴めない。反響が石の壁を伝って四方から返ってくる。
「片手の礼は、返させてもらう」
ヴィオラの鱗杖が淡い光を放った。結界の膜が全員を包み込んで、足元の石畳を照らした。
その光が儀式場の一部を切り取って、闇の中に、人の輪郭が浮かんだ。
壁際に立っている。元侍従長ロイス・ハルヴェリン。右腕が、黒かった。
金属でも義手でもない。影のような質感の、人間のものではない腕が右肩から伸びている。五本の指が長く、爪が鉤のように曲がっていた。
腕から肩へ、首筋へ、黒い変色が広がっている。体の右半分が侵食されかけていた。
目は血走っている。だが狂気だけではないように見えた。信仰の光のようなものが残っていた。
ヴィオラが息を呑んだ。鱗杖を握る手が白くなり、すぐ隣で声が震えた。
「あの腕、アヴェルナの気配です。欠片が埋め込まれている」
アヴェルナ。
あの存在の名前が、ヴィオラの唇から零れた。
封印したはずの。まだ、欠片が残っていた。
欠片を体に埋めた人間がどうなるか、私は知っている。五千年前、嫌というほど見た。腕を喰われ、心を喰われ、最後は命まで。そして喰われ尽くす直前、宿主は一度だけ爆発的に強くなる。命を薪にして、燃え上がるのだ。
つまりこの男は、追い詰められたら必ず、命を削って化け物に変わる。今はまだ前座。本番は、その後に来る。
今、私が前に出れば力がバレる。ノクスは寝ている。なら、頭で戦う。私にしか分からないことを、知らない顔でやる。
すぐ隣のヴィオラに、息だけの声で囁いた。
「ヴィオラ。これは前座。あの男、最後に命を削って一段化ける。それまで誰も死なせないで。立ち位置は、私が指図する」
ヴィオラの目が一瞬見開いて、すぐに引き締まった。小さく、頷く。
ロイスの黒い腕が持ち上がった。指が一本ずつ開いて、闇の中で影が蠢いた。
「代わりに頂いたものだ。この腕はな」
ロイスの口元が歪んだ。笑みとも苦悶ともつかない表情が、ヴィオラの結界の光に照らされていた。
ロイスの黒い腕が、闇の中でゆっくりと掲げられた。
「まずは歓迎の用意をさせてもらおう」
床が光った。足元の石畳に刻まれた魔法陣が次々と起動し、紫の光が儀式場の端まで走っていく。
三つ、四つ、五つ、壁際の石柱の根元にまで紋様が広がり、紫の靄が床を這い始めた。
毒だ。
匂いで分かった。甘い腐臭が鼻腔を刺して、舌の奥に金属の味が残る。
「息を止めないで。私が防ぎます」
ヴィオラの杖が床を叩いた。
透明な結界が全員を包み込んで、紫の靄を外側に押し返した。
靄が結界の表面をなめるように流れて左右に割れ、中の空気は澄んだまま保たれている。
ヴィオラの額に汗の一筋もなかった。
まだ余裕がある。
天井で何かが軋んだ。見上げる暇もなく、鉄格子が真上から落ちてきた。
パーティを分断するようにカイルとトールの間を狙って。
トールが竜盾を頭上に掲げた。鉄格子の端が盾面に激突し、金属同士の衝突が儀式場に反響した。足が石畳にめり込む。だが盾は沈まなかった。
「っ、軽い! 前の盾と全然違うっす!」
トールの腕が返った。
盾面の鱗が衝撃を吸い込んで、一瞬遅れて爆発するように弾き返す。
鉄格子が天井近くまで舞い上がり、壁にぶつかって砕けた。
破片が石畳を叩く音が四方に散る。
「ほう、良い盾だな」
ロイスの声が闇の奥から届いた。姿は見えない。声の方角が変わった。右から左へ。移動している。
ロイスの黒い腕が地面を叩いた。床が裂けた。
亀裂から黒い霧が噴き上がり、霧の中から形が生まれた。影でできた魔物。四つ脚で背が低く、目だけが赤い。
一匹、二匹、五匹。裂け目が広がるたびに湧き出す数が増えていく。十、十五、二十。
儀式場の床の半分が黒い影で覆われた。まだ増える。三十、四十。数えることをやめた。百は超えていた。
カイルが焔鱗の剣を抜いた。黒い鱗の刃紋が松明の残光を吸い込んで、刃の表面に暗い炎の筋が走る。
前列に踏み込んだ。
一閃。焔穿。刃紋が炎を圧縮して放ち、黒い光の線が影の魔物の群れを貫いた。十数体が同時に裂けて霧に還り、その奥にいた個体まで貫通して石柱の根元を焦がした。
カイルの息が一つだけ漏れた。
「切れ味が、前とは別物だ」
右側面からシャルロットが斬り込んだ。風鱗の双剣が交差して弧を描き、風刃が扇状に飛ぶ。影の魔物を五体まとめて引き裂いて壁際まで吹き飛ばした。
切り込んで、抜けて、反転してまた切り込む。風が剣に追従して渦を巻いている。
乱戦の中をミナが縫うように走った。低い姿勢で影の魔物の間を滑り抜けて、竜鱗の短剣が核を正確に砕いていく。手首の返しだけで次々と仕留める動きに無駄がない。
ガーレンが毒吹き矢を放った。大型の個体。他より頭一つ分大きい影の魔物の脚に命中し、動きが鈍る。その隙にミナが横から短剣を振り下ろして核を砕いた。
二人の連携に言葉は必要なかった。後方から弦の音がした。ロウェナの黒弓だった。
暗闇の中で矢が一本ずつ正確に核を射抜いていく。赤い瞳が闇を透かして光っていた。
ヴィオラが鱗杖を振った。結界壁が儀式場の隅にある隠し通路の入口を塞ぐ。壁の裏側で影が蠢いていたが、結界に触れた瞬間に弾かれて霧に還った。
「入口を閉じました。もう敵は増えません」
ヴィオラの声は落ち着いていた。呼吸も乱れていない。
石柱の上で、ノクスが丸くなっていた。金色の目を閉じ、尾を垂らしている。戦闘の轟音の中で、寝ている。
私は戦わない。戦えない。代わりに、目だけを忙しく動かしていた。
影が湧く穴の位置。味方の手数。誰が押されているか。「カイル、左の柱が危ない、寄らないで」「ミナ、右が手薄」。気づいた風を装って、短く声を飛ばす。指示と気づかれない指示。みんなが少しずつ、私の読んだ線の上で動いていく。
ここまでは、まだいい。新しい武器が機能している。ドルクが三週間かけて打った武具が、期待以上に働いている。影の魔物は数こそ多いが、一体一体は脆い。
問題は、これが前座だということだ。あの男が命を削る、その時が必ず来る。私はそこだけを、見ていた。
ロイスの声が闇の奥から響いた。
「厄介な武器を持ち込んだな」
影の魔物が残らず消えた。
床に黒い霧の名残が漂っているだけで、戦闘の痕跡は焦げ跡と石壁の切り傷くらいしか残っていない。
ロイスが闇の中から姿を現した。右半身が完全に黒く変色している。
影の腕から肩、首筋、頬の半分まで、黒い脈動が皮膚の下を波打つように走って、人間の肌と影の境界が曖昧に揺れていた。
左目は人間のまま血走り、右目は真っ黒に塗り潰されている。
ロイスの声が低く変わっていた。喉の奥に何かが詰まったような響きが混じっている。
「この腕だけでは足りない。だから」
ロイスの左手が自分の胸を掴んだ。指が肋骨の間に食い込むように沈み、体の内側から白い光が漏れた。透明に近い、何かが燃えている光だった。
ロイスの髪が白くなっていった。根元から先端へ、数秒で。
左手の指先が灰になって崩れ始めている。小指から薬指へ、砂時計の砂のように削れていく。
始まった。読んだ通りだ。
命を薪にして燃え上がる、最後の一段。本当に怖いのは、ここからだった。
「みんな、間合いを取って! 今までのと、別物が来る!」
声を張った。もう囁きじゃない。気づかれてもいい。今はそれより、誰も死なせないことだ。
それなのに、ロイスは笑っている。
「教祖様のために死ねるなら本望だ。片手で足りなければ命ごとくれてやる」
ヴィオラの唇が白くなった。
「命が、燃えている。あの人、この戦いが終わったら」
言い終わる前に衝撃波が叩きつけられた。ロイスの黒い腕から放たれた一撃が、ヴィオラの結界を正面から叩いた。
鱗杖が軋み、結界の表面に亀裂が走る。亀裂が広がって、砕けた。
「そんな、鱗杖の結界が」
ヴィオラの足が後退した。信じられないという顔だった。
衝撃が全員を叩いた。体が浮き上がり、石畳を転がった。
石柱が根元から崩れ、天井の一部が崩れ始めた。粉塵が視界を塞ぎ、落石が左右で弾ける音が重なった。
ノクスが寝ていた柱も折れた。子猫の体が宙に投げ出される。空中で身を捻って、吹き飛ばされた肩にしがみついてきた。
小さな爪が外套の布を掴み、金色の目が見開かれている。さすがに起きた。
お読みいただき、ありがとうございました。
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