第166話 月のない城壁
翌日の夜。王城の北壁に沿って、七つの影が音もなく移動していた。
月は雲に隠れていた。城壁の石が夜露で濡れて黒く光っている。
足元には枯れ草と、長い間使われていない排水路の蓋が土に半分埋まっていた。ガーレンが先頭で蓋を持ち上げた。
錆びた鉄が軋む音を、布を噛ませて殺している。開いた穴から湿った空気が吹き上がった。
古い石と水の匂い。
「俺が先に降りる。暗号錠が三つある」
ガーレンが穴に足をかけて降りていった。影が闇に溶けるように消え、しばらくして石を叩く音が三度。
安全の合図だった。ミナが降りる前に一度こちらを振り返って、小さく顎を引いた。
肩のノクスが、前足で鎖骨の上を一度踏んだ。
小さな爪が布越しに触れて、すぐ引っ込んだ。
「行こう」
地下水路に降りた。足首まで浸かる冷たい水。
天井は低く、壁は古い石積みで苔がこびりついている。ガーレンが先導して暗号錠を三つ無言で解除し、カイルが前衛、トールとシャルロットが左右、ミナが後衛を固めた。
ヴィオラが鱗杖で結界を準備しながら右肩の後ろを歩いている。肩の上の子猫は目を閉じていた。
――寝てる。
水路が緩やかに右に曲がった。
壁の石積みが新しいものに変わった。城の内部に近づいている。
最初の角を曲がった瞬間だった。ヴィオラの鱗杖が光を放った。
「止まって! 殺傷罠が――」
声が途切れた。カイルの足が石畳を踏んでいた。
床に刻まれた魔法陣が起動した。赤紫の光が水路の石畳を走り、幾何文様が水面を切り裂くように広がった。
黒い刃が床から噴き上がった。三本。
水路の幅いっぱいに、斜めに交差して突き出る呪力の刃。
後衛のミナの位置まで、全員を串刺しにする軌道で。
シャルロットが動いた。風鱗の双剣が鞘を離れる音と同時に、風壁が扇状に広がって黒い刃の一本を弾いた。
金属がこすれるような高い音が水路に反響した。だが二本目と三本目が残っていた。
「カイルさんっ!!」
トールの声が水路を震わせた。
竜盾が地面に叩きつけられ、盾面の鱗が衝撃を吸収して鈍い光を放った。
二本目の黒い刃が盾面にぶつかって散る。鱗に弾かれた破片が水面を弾いて壁に当たり、石の欠片が飛んだ。
間に合った。カイルは自分の剣で三本目を弾いていた。
トールは前方ではなく、後衛のミナに向かって飛んでいた。竜盾がミナの体を完全に覆い、トールの右腕がミナの肩を押さえている。
ミナの声が低く、震えていた。
「あんた、今日何回あたしを抱えんのよ」
「怪我、ないっすか」
「ない」
魔法陣がまだ光っていた。赤紫の文様が水面を揺らして脈打っている。
二発目が来る。文様の線が太くなり始めた。
暗がりから、何かが空を切った。
黒い矢が一本、水路の天井すれすれを飛んで、魔法陣の中央に埋め込まれた核石を正確に射抜いた。石が砕ける乾いた音が響き、赤紫の光が消え、文様が水面に溶けるように崩壊した。
水路が暗闇に戻った。
「だから言ったさ。死にたくなければ、会いに来いって」
声は水路の奥。壁にもたれた影の方から聞こえた。
「来ないから、こっちから来たのさ」
黒い帽子の縁を押し上げる指。口元に細い煙草。
煙が天井に向かって細く立ち上っている。赤い瞳が帽子の陰から覗いて、蝋燭の灯りを受けて鈍く光った。
ロウェナだった。カイルの手が剣の柄に触れて、止まった。
「お前は。死体の上で煙草を吸っていた女」
「覚えてくれてた。嬉しいね、坊や」
ロウェナが壁から体を離した。黒い弓を肩にかけて、水路の中央に歩み出る。
ブーツが水を踏む音が静かに響いた。
「なぜここにいる」
「あんたら、城に来ると思ってた。伝言だけして知らん顔も、寝覚め悪くてね。三日前から中にいる」
ロウェナの赤い瞳がこちらを向いた。
帽子を少し上げて、目を細めた。
「お嬢さん、久しぶりさ。生きてた。良かったさね」
「ロウェナさん」
「気まぐれさ」
ロウェナが煙草を指で挟んで、水路の壁に押しつけて消した。煙が細く立ち上って消えた。
「案内、してやる。罠は、大体わかってる」
ガーレンが振り返りもせずに言った。
「先導は二人でやる。罠を潰しながら進む」
ロウェナが帽子の縁を弾いた。
「分かってるさ、密偵の旦那」
ガーレンの肩がわずかに動いた。
不快でも肯定でもない、ただ事実を確認した動きだった。二人が並んで前に出た。
ガーレンが左壁、ロウェナが右壁。片方が壁を確かめている間にもう片方が前方を見張り、交互に進んでいく。
水路の空気が変わった。湿った石と水の匂いの下に、別の匂いが混じり始めていた。
鉄錆に似ているが、もっと古い。もっと重い。
肺の底に沈むような匂い。ロウェナの足が止まった。
「ここから先、匂いが変わった。血と、もう一つ。古い呪いの匂いさ」
水路の奥に、大きな石の扉が見えた。
扉の表面に刻まれた文様が微かに脈打っている。赤くはない。
黒い光だった。影が光る、という矛盾した現象が、扉の表面で起きていた。
肩の上で子猫が目を開けた。金色の瞳が扉の方向を射抜いて、小さな体の毛が根元から逆立った。
背中が膨らみ、耳が伏せられ、前足の爪が肩の布に食い込んだ。一秒。
二秒。子猫のノクスがすぐに目を閉じた。
毛が収まり、耳が戻り、前足の爪が引っ込んだ。何事もなかったかのように、肩の窪みに顎を乗せて丸くなった。
――今の、何を感じた。
問いかける相手は目を閉じている。
答えは返ってこなかった。カイルが扉の前に立った。
手を伸ばして、石の表面に触れた。
指先が黒い光を横切った瞬間、扉の文様が一度だけ強く脈打って、消えた。
「鍵が外れた」
ガーレンが短く言った。
「外からは開けられないはずの扉だ。中から開ける仕組みになっている。誰かが、あんたらを待っていたってことだ」
カイルの手が剣の柄に触れて、今度は離さなかった。
全員が扉の前で息を整えた。トールが竜盾を構え直し、盾面の鱗が蝋燭の残光を反射して水路の天井に淡い光の筋を投げた。
ミナが短剣を抜いた。シャルロットが双剣を両手に構えた。
ヴィオラが鱗杖を胸の前に立てて、結界の術式を唇の内側で編み始めた。ガーレンとロウェナが扉の両脇に立った。
カイルが扉を押した。石の扉が、重い音を立てて開いた。
奥から黒い空気が吹き出して、蝋燭の灯りを一瞬揺らした。中は暗かった。
松明が消されている。天井の高い空間が闇の奥に広がっている気配だけがあった。
水路よりずっと広い。声を出せば反響するほどの、古い儀式場。
一歩踏み入れた。
背後で、石の扉が閉まった。振り返る暇もなかった。
重い石が噛み合う音が儀式場全体を震わせて、蝋燭の灯りが消えた。ガーレンが火打ち石を擦った。
一瞬の火花が闇を裂いて、手元の短い灯芯に火が移った。その小さな灯りだけが残り、天井の高さも壁の位置も分からない闇が全方位から押し寄せた。
閉じ込められた。
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