第164話 「見てないっす!」
トールは鍛冶場の入口で立ち尽くしていた。鍛造の最終日、早朝。まだ日が昇りきっていない。
父ドルクが仕上げに入る段階で「盾の仮組、誰か支えろ」と声を飛ばした。
竜盾の裏板を圧着する工程で、盾を固定する腕が足りない。弟子は営業時間前でまだ誰も来ていなかった。
「ミナさんに頼んでくるっす」
宿舎に走り、ミナの部屋のドアを叩いた。三回。返事がない。四回目で、鍵が回る音がした。
「何時だと思ってんの」
ミナの目が半分しか開いていなかった。寝間着のまま、髪が片側に潰れて肩にかかっている。寝ぼけた声の端が掠れている。
「す、すみません、でも父ちゃんが」
言葉が途切れた。視線が下りた。一瞬で上に戻した。天井の梁。木目の数を数えようとして、数えられなかった。
ミナの寝間着の胸元が緩んでいた。紐が解けかけて、布が肩口からずり下がっている。本人は寝ぼけていて気づいていないらしい。
顔から首まで、熱が一気に上がった。
「何よ、こっち見なさいよ話聞いてんの」
「み、見てるっす! 見てないっす!」
「どっちよ」
ミナが目を擦りながら一歩近づいた。後退った。背中が廊下の壁にぶつかって、もう下がれない。
目を閉じた。閉じても残像が消えない。
ミナが欠伸をしながら鍛冶場の方を見やった。
「トールとドルクのおっちゃんだけでしょ。まあいいわ、行く」
言わなきゃ。
言えない。でも、このままは無理だ。
自分の上着の襟を掴んだ。引っ張って脱いで、ミナの肩にかけた。その動きが速すぎてミナが半歩よろけた。
「何よ急に」
「あ、朝は冷えるっすから!」
声が裏返った。嘘が下手だった。自分でも分かっている。
耳まで熱い。
ミナがトールの上着を掴んだ。大きかった。袖が指先から余り、裾が腰まで垂れている。
ミナの手が一瞬だけ止まった。上着に残った体温が伝わったのか、指先が布を握り直した。
「ふーん」
それ以上何も言わずに鍛冶場に入っていった。
上着を羽織ったまま、盾の裏側に回って両手で押さえる体勢を取る。ドルクが鎚を振り上げ、打点を定めて振り下ろした。火花が散った。赤い粒が弧を描いてミナの方に飛んだ。
「ミナさんっ!」
体が動いた。考えるより先に。
腕がミナの腰に回って引き寄せ、自分の体で火花を遮った。赤い粒が背中のシャツに当たって消えた。
密着している。
ミナの背中がトールの胸板に押し付けられていた。寝間着越しに体温が直に伝わっている。腰に回した腕が硬直したまま離せない。
心臓が暴れていた。背中に触れているミナに、鼓動が聞こえているに違いなかった。
ミナが動かなかった。腰に回った腕を押し返さない。背中を預けたまま、小さな声で言った。
「あんた、でかくなった?」
「え? 鍛えたっすけど」
ミナが自分の胸元を見下ろした。
気づいた。
緩んだ寝間着。紐が解けた襟元。トールの腕の中で。密着した状態で。
ミナの顔が一瞬で赤くなった。首から耳の先まで、炉の火よりも速く染まっていく。
「っ、!! あんた、まさかずっと見て」
「み、見てないっす!!」
嘘だった。声が上ずって額に汗が浮いて、自分でも最悪の嘘だと分かっていた。
離れない。離せない。
ミナの片手が胸元を押さえた。もう片方の手はトールの腕を掴んだまま離さない。背中越しに鼓動が重なっている。自分のと、ミナのと。どちらが速いのか、もう分からなかった。
ミナが小声で言った。
「なんで、言わなかったのよ」
「言えなかったっす」
ミナの手が上がった。
拳を振りかぶって、寸前で止めて、胸をぽんと叩いただけだった。
力のない、柔らかい音がした。
「ばか」
ミナがトールの上着の前をぎゅっと合わせて胸元を隠した。盾の方に戻って、何事もなかったように裏板を押さえ直す。
「上着、もうちょっと借りとく」
小声だった。顔は赤いまま、目は盾面を見ている。
ドルクがパイプを咥えたまま背を向けていた。壁に向かって鎚を掛け直す動作をしていたが、その背中が微かに震えていた。
「成長したな、馬鹿息子」
口が開きかけて、閉じた。竜盾を握る手に力が入った。耳が熱い。
赤茶の髪の下で、たぶん真っ赤になっている。
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