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第163話 ヴェルガリオンの鱗

 布袋の口を解いて、作業台の上に鱗を並べた。黒い。


 夜空を剥ぎ取ったような漆黒で、指で触れると氷のように冷たかった。五枚の鱗がドルク鍛冶屋の作業台に並ぶと、炉の赤い光を吸い込んで、一枚一枚が底なしの闇を湛えているように見えた。


 ドルクがパイプを咥えたまま固まっていた。



「お嬢ちゃん、こいつが」


「ヴェルガリオンの鱗です」


「トールからは聞いてた。聞いてたが」



 ドルクの残った右手が、一番手前の鱗に伸びた。人差し指の腹で表面を弾くと、低く澄んだ音が鍛冶場の天井に響いて、しばらく消えなかった。


 パイプの先がぴくりと揺れて、煙が細く立ち上った。



「五千年ものの鱗か」



 呟きは半分ほど吐息に混じっていた。ドルクの目が細くなり、鱗の断面を炉の明かりに透かすように傾けた。


 黒の奥に、紫がかった結晶構造が走っているのが一瞬だけ見えた。



「俺の鎚じゃ、叩けるかどうかも怪しい」



 ドルクがパイプを口から離して、作業台の端に置いた。残った右腕の袖を肘まで捲り上げる。


 前腕には古い火傷と金属の粉が擦り込まれた痕が重なっていて、鍛冶師の年輪のようだった。



「だが、やってみる」



 ドルクが顔を上げた。



「片腕でも、鎚は振れる」



 背後で音がした。


 カイルが焔の循環式を組み込んだフレイムソードを差し出し、トールが凹みだらけの大盾を並べ、シャルロットが双剣を、ミナが短剣を置いた。ヴィオラも杖を作業台の端に添えた。


 使い込まれた五つの武器が鱗の横に並ぶと、ドルクがパイプも忘れて一つずつ目を走らせた。カイルの剣を受け取り、炉の光に翳した。



「よく使い込んでるな。刃紋が馴染んでる」


「あんたが打った剣だ。信頼してる」


「今度は鱗を乗せる。前のとは別物になるぞ」



 ドルクが鱗を一枚持ち上げて炉に近づけた。


 鱗の表面は炉の熱を受けても、変化しなかった。


 黒いまま、冷たいまま。


 熱を弾いている。



「だがこの鱗、普通の炉じゃ溶けねえな」



 鱗を炉の口にかざしたまま、ドルクの眉間に皺が寄った。火の粉が鱗の表面で弾けて散るだけで、結晶構造は微動だにしない。



「温度が足りない。鱗が炉の熱を弾いてる」


「ドルクさん」



 声を出した。


 ドルクが振り返る。



「おじいさんの手帳。竜鱗鍛造の項、覚えてる?」



 ドルクの目が一瞬だけ揺れた。作業台の端に積まれた道具箱の奥から、ドルクが使い古した革表紙の手帳を引き出した。


 何十年も前の先代が書き残した鍛冶の記録書で、頁の大半が褪せた古代文字で埋まっている。



「あの頁か。読めなかった箇所だ」


「解読できたの。魔素の配合比を変えれば鱗の結晶構造が開く。炉の温度じゃなくて、魔素の問題だった」



 ドルクが手帳を開いた。


 以前に通った頁の余白に、私の筆跡で解読メモが書き込まれている。古代文字の下に、現代語での訳と配合の数値が並んでいた。


 ドルクの指がメモの上を辿り、途中で止まった。



「また読み進めたのか。あの古代語、知り合いの学者に見せたことがあるんだが、暗号じゃねえかって言ってたぞ」


「暗号じゃないの。五千年前の文法が今に伝わっていないだけ」



 ――だって私が使ってた文法だから。


 口の中でだけ呟いた。ドルクの目が私の顔をじっと見ていたが、追及はしなかった。



「ふん。お前専属だな、じいさんの手帳は」



 ドルクが手帳を閉じて、もう一度鱗を手に取った。


 指先で結晶面を確かめるように撫でてから、鎚を掛けた壁に目を向けた。



「やってみるか」



 炉の横に立った。ドルクが鎚を振り上げるのを待って、魔素の配合を指示した。


 炉に追加する鉱物の種類と量、投入の順番。手帳の解読メモを頭の中で組み直しながら、ドルクの手の動きに合わせて指示を出す。



 鱗が、開いた。



 黒い表面に紫の亀裂が走り、結晶構造が花のように広がって、熱を受け入れ始めた。


 炉の赤い光が鱗の内側を透過して、鍛冶場の壁に紫の模様が映った。ドルクの鎚が振り下ろされた。


 金属が叩かれる音ではなかった。もっと深くて重い、大地を叩くような音が鍛冶場を震わせた。


 鎚が鱗に触れた瞬間、ドルクの腕から肩、背中までが一本の線になって力が通るのが見えた。片腕の鍛冶師の本気だった。


 一打ごとに鱗の形が変わっていく。ドルクの額に汗が浮き、首筋を伝って顎から滴った。


 右手の指が鎚の柄を握る力が変わるたびに、打点が微妙にずれて鱗の曲率が変化する。私は炉の横で魔素の流れを見ていた。


 鱗の結晶構造が閉じかけるたびに配合を修正し、ドルクに声をかける。ドルクの鎚が応じる。


 二人三脚の鍛造だった。私の古代知識がなければ鱗は開かず、ドルクの腕がなければ形にならない。


 どちらが欠けても成立しなかった。


 作業台の端で、子猫のノクスが丸くなっていた。


 鎚が振り下ろされるたびに、金色の目は閉じたまま片方の耳だけがぴくりと動いた。尾の先が鎚の拍子に合わせて小さく揺れている。


 寝ているのか、聞いているのか。


 ドルクが鎚を止めて汗を拭った時、ノクスの方に手を伸ばした。



「お前さんも立派になったな」



 撫でようとした指先を、ノクスが前足で押し返した。



 小さな肉球がドルクの人差し指を一回だけ突いて、そのまま体を丸め直した。



「ノクス、愛想ない」



 小声で言ったが、ノクスの尾が一度だけ揺れた。反論できない代わりの、不服の尾だった。


 三週間、毎日鍛冶屋に通った。朝、別邸を出て中層の坂道を下り、ドルクの鍛冶場に入る。


 炉に火を入れて、魔素の調合を準備する。ドルクが鎚を手に取る。


 二人で顔を見合わせて、始める。日を追うごとに、鱗の扱い方が掴めていった。


 ドルクの打ち方が変わり、私の配合指示も精度が上がった。初日は一枚の鱗を曲げるのに半日かかったのが、二週目には午前中に形が出るようになった。


 午後はドルクが刃紋の調整をしている横で、手帳の残りの頁を読んだ。五千年前の文法で書かれた鍛冶の秘伝が、ドルクの祖父の時代に書き写されていた。


 祖父が読めなかった箇所、父が読めなかった箇所、ドルク自身が学者に見せても解読できなかった箇所。全部読めた。全部、私が使っていた言葉だったから。


 ドルクは何も聞かなかった。私が古代文字を読める理由も、鱗の結晶構造を知っている理由も。


 ただ黙って私の指示を聞き、鎚を振り続けた。


 二週目の夕方、鱗杖の芯材を削っている時にドルクが言った。



「お嬢ちゃん。お前がいなきゃ、この鱗は打てなかった」



「ドルクさんの腕がなければ、できません」



 ドルクが鉋を止めた。パイプを咥え直して、煙を一筋吐いた。



「悪くない」



 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 三週間かけて、五点が完成した。


 作業台に並んだ武器を、炉の残り火が照らしていた。焔鱗の剣、竜盾、風鱗の双剣、竜鱗の短剣、鱗杖。


 五点が作業台に並んでいた。どれも黒鱗の紋様が走り、炉の残り火を吸い込んで鈍く光っている。


 指で弾けば低い共鳴音が鳴る。三週間前の武器とは別物だった。


 私の武器はない。表向きはノクスの助手だから、それでいい。


 いざとなれば、ヴェルガリオン戦で手に入れた前世の杖がある。


 ノクスが作業台の端で丸くなったまま、金色の目で五点を見渡していた。


 前足の先が一度だけ盾に向かって伸びかけて、やめた。



 翌朝、ドルクの鍛冶屋の前。



 煤だらけの顔で戸口に立っているドルクの横に、カイルとトールが並んでいた。焔鱗の剣と竜盾を受け取りにきた二人の手が、新しい武器の重みを確かめるように柄と縁を握り直していた。


 ドルクがパイプの先を指で弾いた。火はつけない。



「三週間で五本打った。片腕でヴェルガリオンの鱗を打った鍛冶屋は、大陸にもう一人いるかどうかだろうな」



「誇っていい仕事だ」



 カイルの声は静かだったが、焔鱗の剣を見る目には確かな熱があった。ドルクが一瞬黙った。


 パイプを持った手が下がり、鍛冶場の奥を振り返った。炉の残り火が暗い工房の壁を赤く染めている。


 鎚が掛かった壁、鉄の匂い、手帳が置かれた棚。三代にわたる鍛冶屋の全てがそこにあった。



「俺はな、いずれ世界一の鍛冶屋になる」



 トールの足が止まった。



「父ちゃん」



「片腕でも、鎚を振り続ければ、いずれ辿り着く。ヴェルガリオンの鱗を打てたんだ。もう怖いものはない」



 ドルクが私を見た。煤の下の目が真っ直ぐだった。



「お嬢ちゃん。次に珍しい素材が手に入ったら、一番に持ってこい。打ってやる」



「うん」



「支店の奴らに任せりゃ楽だが、こいつらの武器は俺が打たねえと気が済まねえ」



 奥の台所から声が飛んできた。


 ミラだ。末娘を腰に乗せたまま布巾で手を拭いている。



「あんた、支店の連中から問い合わせが止まらないわよ。『本店で何打ってるんだ』って」


「うるさい。支店五十あっても、鱗を打てるのは俺だけだ」



 トールの顔が崩れた。


 唇を噛んで、目元を手の甲でこすった。竜盾を両腕で抱え込むようにして、盾面の紫の筋を指先でなぞった。



「父ちゃん、世界一になるっす」



「うるさい。まだ五本打っただけだ」



 ドルクがパイプを咥え直した。


 パイプを持つ右手の指先が、ほんの少しだけ震えていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

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