第162話 「家族が困ってたら助ける」
翌朝の朝食が片付いた後だった。ミナが廊下の角でリーラの袖を引いた。
「ちょっと、二人だけで」
食堂の喧騒が背中で遠ざかっていく。
トールの「もう一杯いいっすか」とフィオレの「はい、どうぞ」が重なって聞こえた。
ミナは別邸の裏庭に出た。
薬草園の端、誰にも聞こえない場所まで歩いて、足を止めた。朝日が低い角度で石畳を照らしている。
「伝言がある。ロウェナって女から」
背筋が伸びた。
あの、死体の上で煙草を吸っていた女。
ミナが伝言の内容を短く伝えた。判断はリーラ姐さんに任せる、と言われたらしい。
それだけ言って、ミナが踵を返した。
「ミナ」
ミナが振り返った。
「修道院のガナ婆さん、足が悪いんでしょう」
ミナの背中が強張った。
振り返った顔から、さっきまでの情報屋の目が消えていた。
「誰から」
「フィオレから聞いたの。ガナ婆さんの話してるとき、ミナが泣いてたって」
ミナの唇が引き結ばれた。
でも何も言わなかった。腰の袋から、布に包んだものを取り出した。
ずしりと重い。布を開くと、拳ほどの黒い鱗の欠片が朝日を受けて鈍く光った。
ヴェルガリオンの鱗を砕いた一片だった。
「これ、薬代に使って」
ミナが動かなかった。
鱗を見ていた。
「姐さん、これ、一枚で」
「うん。中層の家が買えるくらい。まだたくさんあるから」
ミナの視線が鱗からこちらに移った。
「何で」
「何でって、ミナの家族でしょう。フィオレから聞いてるよ。ガナ婆さんと、修道院の子達のこと」
ミナの喉が動いた。
「あたし、姐さんに、何も返せてない」
「ミナはもう、私の家族みたいなものよ」
ミナの目が揺れた。
「だから返すとか返さないとか、関係ない。家族が困ってたら助ける。当然のことでしょ」
薬草園の風がヒソップの穂を揺らした。紫の小花が一つだけ離れて、朝日の中を飛んだ。
ミナが鱗を受け取った。
両手で包むように。
指が震えていた。
「ガナ婆の足、ちゃんとした薬師に診せる。子供達の飯も、しばらくは困らないようにする」
ミナが鱗を大事そうに懐に仕舞った。
「うん」
「姐さん」
ミナの声が小さくなった。
「あたしも、姐さんのこと、家族だと思ってる」
言い終わる前に、ミナが飛びついてきた。
細い腕が首に回って、顔が肩口に押し付けられた。
肩の上のノクスが「みゃ」と短く鳴いて、反対側の肩に飛び移った。
ミナの体は思ったより軽くて、思ったより震えていた。
「ありがと、姐さん」
声が震えていた。
肩口が、じわりと濡れた。
この子はずっと、誰にも頼れなかったんだ。
何も言わずに背中に手を回した。
しばらくそうしていた。
ミナが離れたとき、目の縁が赤くなっていた。
袖で一度だけ拭って、足早に食堂へ戻っていった。
背中が見えなくなるまで見送った。
胸の奥が温かかった。
前世は、ずっと一人だった。
今は違う。
ミナがいる。
トールがいる。
ヴィオラさんがいる。
カイルがいる。
薬草園のカモミールが朝日を受けて白く光っていた。
蜂が一匹、花の間を渡っている。
羽音が耳に近づいて、遠ざかった。
肩の上で、ノクスが小さく身じろぎした。
子猫の体が襟元に額を押し当てて、丸まり直す。
金色の目がこちらを見上げていた。
五十年、誰にもバレずに糸を引いてきた男。
マヌエルの上にいる、本当の敵。
カイルの手の中には、ヴァーン殿下の呪いを解く黒い結晶がある。
食堂の窓から、ミナの「あんた食べすぎよ」が聞こえた。
トールの「うすっ」が続いた。
裏庭から食堂に戻った。
自分の席に座り直した。
カイルが横目でこちらを見て、何も言わずにパンを一切れ皿に置いた。
一口齧ると、昨日よりずっと味が濃く感じた。
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