第161話 「ちゃんと、言葉にする」
テラスに出たのは、眠れなかったからだ。別邸の二階、南向きのテラスは薬草園の向こうにヴィルヌアの夜景を見下ろせる。
街灯が中層の屋根の上で点々と灯り、その上に月が雲の切れ間から白く浮いていた。手すりに肘を置いた。
石が冷たかった。夜風に攫われた銀の髪が、視界の端でちらちら揺れた。
ポケットの中で、子猫のノクスが丸くなっている。影のブレスを全部呑んで縮んだ体は、以前の半分もない。
それでも金色の目だけは変わらなくて、さっき部屋を出る時に前足で太腿を一度踏んだ。爪は出していなかった。
大丈夫だ。
いつもの合図。
それだけで十分だった。
ヴェルガリオンの咆哮が、まだ耳の奥に残っている。骨塚を埋め尽くす人骨の白さも、硝子化した平原に降り続ける灰の粒も。
あの灰は今も降っているのだろう。南方の山脈があった場所に、真円の荒野だけを残して。
足音がした。
革の靴底が石のテラスを踏む、静かな音。振り返らなくても分かった。
歩幅と、重心の置き方と、剣の鍔が腰に当たらないように体を僅かに開く癖。
「リーラ」
「うん」
カイルが手すりの隣に立った。肘を置いて、同じ夜景を見た。
肩が触れるほど近くはない。でも腕を伸ばせば届く距離だった。
しばらく、二人とも黙っていた。
街灯の一つが瞬いて消えて、また点いた。虫が光の周りを回っているのが、テラスの高さからでもぼんやり見えた。
「修行、どうだったの」
声に出すと、自分でも驚くほど普通の声だった。
昨日までの絶縁の恐怖が嘘のように、言葉がするりと喉を抜けた。
「ヴァロアさんって、どんな人?」
カイルが少し間を置いた。月明かりが横顔の輪郭を青白く浮かせている。
「変わった爺さんだ。人を斬らん、と言って山に籠っている元剣聖だった」
「人を斬らない剣聖」
「ああ。お前くらいの歳の頃に、一度大きな失敗をしたらしくてな。それで、人里を捨てた」
風が吹いた。
薬草園のカモミールの香りが微かに混じっている。
「大きな失敗って」
カイルの指が手すりの上で一度だけ動いた。剣の柄に触れる時の癖だった。
ここに剣はない。指だけが同じ軌道を描いて、止まった。
「弟子を一人、自分の手で殺めた、と」
声が低くなった。
「多くは言わなかったが、最後の夜に、酒の入ったところで漏らした」
カイルはこの話を、自分の中でまだ整理しきれていないのだろう。焚き火の傍で聞いた言葉を、そのまま運んできたような声だった。
「『あいつを止められたのは、俺だけだった。でも俺は、止められなかった』、と」
月が雲に隠れかけて、テラスが少し暗くなった。
「それ以来、人を斬らんと決めた、と」
鼻の奥がつんと痛くなった。止めようとした。
会ったこともない人だ。名前も顔も知らない、北方の山にいる老人の話だ。
泣く理由がない。
でも駄目だった。頬を一筋、涙が伝い落ちた。
手すりに置いた指の上に落ちて、石の冷たさに散った。
「お前」
カイルの声が、少しだけ柔らかくなった。呆れでも驚きでもない。
何度も見てきた、という響きだった。
「ごめん」
袖で目元を拭った。拭いた端から、もう一筋が落ちる。
「会ったこともない人なのに」
「お前は、本当に、人の話で泣くな」
咎める声ではなかった。確かめるような、静かな声だった。
「だって」
言葉を探しても見つからない。でも口が止まらなかった。
「ずっと一人で、山にいたんでしょう。誰にも、その話、できなかったんでしょう」
涙が止まらないまま、横を向いてカイルを見上げた。
「それを、初めて聞いてくれたのが、カイルだったんでしょう」
カイルの目が、僅かに見開かれた。
「ああ」
「だったら、その夜、ヴァロアさんは、少しだけ、楽になったと思う」
声が震えた。震えたまま、最後まで言った。
「だから、よかった」
カイルが黙った。しばらく、私の横顔を見ていた。
月が雲から出て、テラスに白い光が戻った。薬草園の葉が風に揺れて、銀色の粒を散らしている。
「お前は、そういう女だ」
低い声だった。独り言に近かった。
「え?」
「いや、何でもない」
カイルが視線を月に戻した。口元に何かが浮きかけて、すぐに消えた。
沈黙が続いた。でも重くはなかった。
薬草の香りと、虫の羽音と、遠い街灯の瞬きだけが、二人の間を満たしていた。
カイルが息を吐いた。長く、ゆっくりと。
何かを決めたような吐き方だった。
「俺は、お前を、必ず守る」
声が変わった。修行から帰ってきた男の声ではなかった。
もっと奥にあるものが、喉を通って出てきたような声だった。
「父上と兄上を取り戻したら、ちゃんと、言葉にする」
心臓が一度、強く打った。ちゃんと、言葉にする。
何を。
それは聞かなかった。
聞かなくても、カイルの声の震え方で分かった。分かりたかった。
「うん」
「待ってる」
カイルの手が動いた。手すりの上に置かれていた私の手に、横から、そっと重なった。
指が包まれた。大きくて、硬い手だった。
剣の柄を握り続けてきた掌の皮が厚くて、でも力は入っていなくて、ただ温かかった。握り返した。
小さな力で。それだけで十分だった。
月が真上にあった。雲が一つも掛かっていない、白い月だった。
二人で見上げた。手を繋いだまま。
この手を離したくないと思った。
風がテラスを抜けた。二人の髪を同時に撫でて、薬草園の向こうに消えていった。
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