第159話 誰も口を開かなかった
三日目の夜が更けていた。庭を歩いてきた。月明かりの下で薬草の葉が銀色に光っていて、冷たい空気が喉の奥まで届いた。
何も考えられなかった。頭の中が空白だった。空白のまま足だけが動いて、廊下に戻ってきた。
自室の扉の前で、足が止まった。カイルが立っていた。
壁にも扉にも寄りかからず、真っ直ぐに立っていた。腕は下ろしている。剣は帯びていない。革の胸当てもない。
白い麻のシャツだけで、廊下の燭台の灯りを浴びていた。
「カイル」
声がかすれた。
「待ってた」
低い声だった。でも、食堂で聞いた怒りはもう残っていなかった。
足が動かなかった。カイルが扉の前に立っている、それだけのことなのに息が詰まった。
絶縁を告げに来たのかもしれない。
「リーラ」
カイルの声が、静かだった。
「一つだけ、確認させてくれ」
「はい」
「お前、俺の父上と兄上のために、死にに行ったのか」
息が止まりかけた。
ヴィオラが、伝えたのだ。
ヴィオラは何かを伝えたのだろう。結晶を見せたのかもしれない。触媒の意味を話したのかもしれない。
ただ、カイルの問いの形が、「父上と兄上のために」という言葉が、物語っていた。
喉が締まった。
声を絞り出した。
「死にません。生きて、帰ってくるって決めて、行きました」
「それでも、死んでもおかしくなかった」
「うん」
カイルが息を吐いた。長い息だった。胸の底から押し出すような、息だった。
「お前は、本当に馬鹿だ」
語尾が掠れていた。
「うん。馬鹿です」
カイルの手が懐に入った。取り出したものに、燭台の灯りが当たった。
黒い結晶だった。透き通った黒の内側で、橙色の光が脈打っている。古竜の心臓の最後の残滓。骨塚の焼け野原の中心で、灰の中から拾い上げた、あの一片。
「これ、お前が持って帰ってきたんだろう」
「はい」
「お前の手から、もう一度、渡してくれ」
結晶を受け取った。
指先に触れた瞬間、脈打っていた。骨塚の灰の中で初めて手に取った時と同じ鼓動が、まだ残っていた。ヴェルガリオンの鼓動が、この小さな結晶の中でまだ脈打ち続けている。
両手で包んだ。
カイルの掌の上に戻した。
指先が触れた。カイルの指が冷たかった。
「お父様と、ヴァーン殿下を、取り戻してください」
カイルの指が結晶を包んだ。指と指の隙間から、橙色の光が漏れていた。
「ああ――」
カイルの目が光っていた。灰色の瞳の縁に涙が溜まって、燭台の灯りを映していた。瞬きを一つすると涙が頬を伝い、拭わなかった。
カイルが泣くのを見るのは、初めてだった。
「ありがとう」
息が混じっていた。
「俺の、父上と兄上を、救うために、古竜と戦ってくれて」
「うん」
「次は、隠すな。俺も連れていけ」
「全部は、約束できない」
カイルの指が、結晶を包んだまま止まった。
「でも、一人で決めない。二度とあなたに何も言わずに、勝手にいなくならない。そこまでは、約束できる」
カイルの目が揺れた。
「それでいい」
言葉が途切れた。廊下に、二人の呼吸だけが残った。燭台の炎が微かに揺れて、壁の影が動いた。
カイルが一歩、踏み込んだ。腕が伸びてきて背中に回り、引き寄せられた。
額がカイルの鎖骨のあたりに押し当てられた。麻のシャツの匂いがした。汗と、夜風と、北の山の松脂の名残り。修行の一ヶ月がこの布に染みついている。
シャツの繊維が頬に触れて、粗くて、汗の匂いがした。カイルの腕に力が入った。強かった。肩甲骨が押し付けられて、呼吸が浅くなるほどだった。
カイルの顎が、頭の上に乗った。髪を押す骨の重さが伝わってきた。
肩が濡れた。カイルの涙が髪を伝って、首筋に流れた。
「俺は、怖かった」
声が、頭の上から降ってきた。
「街道であの速報を聞いた時から、お前を失ったかもしれない俺の人生を、ずっと、想像していた」
カイルの腕がさらに強くなり、息が詰まるほどだった。
でも、離してほしくなかった。
「お前に怒ったのも、半分は、それだ。お前が憎いんじゃない。お前を失うのが、ただ怖かった」
胸の底で、何かが壊れた。
二日間かけて積み上げた覚悟が、絶縁されても受け止める、嘘をついた自分が悪い、仕方がない。その全部が、カイルのたった一言で崩れた。
「ごめんなさい」
声が裏返った。
「ごめんなさい、カイル」
何度も繰り返した。何度繰り返しても足りなかった。
嘘をついたことも、黙って行ったことも、本当の理由を永遠に言えないことも、全部が喉の奥で絡まって、「ごめんなさい」以外の言葉が見つからなかった。
カイルの胸元のシャツを握りしめた。布が皺になるのも構わずに、指を食い込ませた。ボタンの縁が掌に当たって硬かった。
カイルの腕に、また力がこもった。
「もう、いいんだ」
声がかすれていた。
「生きて、戻ってきてくれた。それで、いいんだ」
カイルの肩が震えた。声を殺そうとして、殺しきれずに、喉の奥から短い呼吸が漏れた。
胸元を握りしめたまま、顔を埋めた。シャツの布が涙で濡れていくのが分かった。
カイルの心臓の音が聞こえた。速かった。
言葉はもう、何も出なかった。
カイルも黙っていた。何かを言おうとして、声にならなくて、また腕に力を込め直す。その繰り返しだった。
廊下の燭台の灯りが、壁に二人の影を映していた。震える肩と、重なった腕と、離れない指先が、一つの輪郭になって廊下の石畳の上を長く伸びている。
どちらからともなく、泣き声が小さくなっていった。涙が止まったのではなかった。声を出す力が残っていなかっただけだった。
呼吸だけが互いの体を揺らしていた。カイルの胸の上下と、自分の肩の上下が、少しずつ同じ速さになっていった。
カイルの腕がようやく緩んだ。離れた瞬間、廊下の空気が冷たかった。
「今日は、もう寝ろ。明日、ちゃんと飯を食え」
声はまだかすれていた。でも、二日間聞けなかった優しさが、最後の一語に戻っていた。
背中を向けて、自分の部屋の方へ歩いていった。足音が遠くなって、角を曲がって、消えた。
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