表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

159/236

第159話 誰も口を開かなかった

 三日目の夜が更けていた。庭を歩いてきた。月明かりの下で薬草の葉が銀色に光っていて、冷たい空気が喉の奥まで届いた。


 何も考えられなかった。頭の中が空白だった。空白のまま足だけが動いて、廊下に戻ってきた。


 自室の扉の前で、足が止まった。カイルが立っていた。


 壁にも扉にも寄りかからず、真っ直ぐに立っていた。腕は下ろしている。剣は帯びていない。革の胸当てもない。


 白い麻のシャツだけで、廊下の燭台の灯りを浴びていた。



「カイル」



 声がかすれた。



「待ってた」



 低い声だった。でも、食堂で聞いた怒りはもう残っていなかった。


 足が動かなかった。カイルが扉の前に立っている、それだけのことなのに息が詰まった。



 絶縁を告げに来たのかもしれない。



「リーラ」



 カイルの声が、静かだった。



「一つだけ、確認させてくれ」



「はい」



「お前、俺の父上と兄上のために、死にに行ったのか」



 息が止まりかけた。


 ヴィオラが、伝えたのだ。


 ヴィオラは何かを伝えたのだろう。結晶を見せたのかもしれない。触媒の意味を話したのかもしれない。


 ただ、カイルの問いの形が、「父上と兄上のために」という言葉が、物語っていた。


 喉が締まった。


 声を絞り出した。



「死にません。生きて、帰ってくるって決めて、行きました」



「それでも、死んでもおかしくなかった」



「うん」



 カイルが息を吐いた。長い息だった。胸の底から押し出すような、息だった。



「お前は、本当に馬鹿だ」



 語尾が掠れていた。



「うん。馬鹿です」



 カイルの手が懐に入った。取り出したものに、燭台の灯りが当たった。


 黒い結晶だった。透き通った黒の内側で、橙色の光が脈打っている。古竜の心臓の最後の残滓。骨塚の焼け野原の中心で、灰の中から拾い上げた、あの一片。



「これ、お前が持って帰ってきたんだろう」



「はい」



「お前の手から、もう一度、渡してくれ」



 結晶を受け取った。



 指先に触れた瞬間、脈打っていた。骨塚の灰の中で初めて手に取った時と同じ鼓動が、まだ残っていた。ヴェルガリオンの鼓動が、この小さな結晶の中でまだ脈打ち続けている。


 両手で包んだ。


 カイルの掌の上に戻した。


 指先が触れた。カイルの指が冷たかった。



「お父様と、ヴァーン殿下を、取り戻してください」



 カイルの指が結晶を包んだ。指と指の隙間から、橙色の光が漏れていた。



「ああ――」



 カイルの目が光っていた。灰色の瞳の縁に涙が溜まって、燭台の灯りを映していた。瞬きを一つすると涙が頬を伝い、拭わなかった。


 カイルが泣くのを見るのは、初めてだった。



「ありがとう」



 息が混じっていた。



「俺の、父上と兄上を、救うために、古竜と戦ってくれて」



「うん」



「次は、隠すな。俺も連れていけ」



「全部は、約束できない」



 カイルの指が、結晶を包んだまま止まった。



「でも、一人で決めない。二度とあなたに何も言わずに、勝手にいなくならない。そこまでは、約束できる」



 カイルの目が揺れた。



「それでいい」



 言葉が途切れた。廊下に、二人の呼吸だけが残った。燭台の炎が微かに揺れて、壁の影が動いた。


 カイルが一歩、踏み込んだ。腕が伸びてきて背中に回り、引き寄せられた。


 額がカイルの鎖骨のあたりに押し当てられた。麻のシャツの匂いがした。汗と、夜風と、北の山の松脂の名残り。修行の一ヶ月がこの布に染みついている。


 シャツの繊維が頬に触れて、粗くて、汗の匂いがした。カイルの腕に力が入った。強かった。肩甲骨が押し付けられて、呼吸が浅くなるほどだった。


 カイルの顎が、頭の上に乗った。髪を押す骨の重さが伝わってきた。


 肩が濡れた。カイルの涙が髪を伝って、首筋に流れた。



「俺は、怖かった」



 声が、頭の上から降ってきた。



「街道であの速報を聞いた時から、お前を失ったかもしれない俺の人生を、ずっと、想像していた」



 カイルの腕がさらに強くなり、息が詰まるほどだった。


 でも、離してほしくなかった。



「お前に怒ったのも、半分は、それだ。お前が憎いんじゃない。お前を失うのが、ただ怖かった」



 胸の底で、何かが壊れた。


 二日間かけて積み上げた覚悟が、絶縁されても受け止める、嘘をついた自分が悪い、仕方がない。その全部が、カイルのたった一言で崩れた。



「ごめんなさい」



 声が裏返った。



「ごめんなさい、カイル」



 何度も繰り返した。何度繰り返しても足りなかった。


 嘘をついたことも、黙って行ったことも、本当の理由を永遠に言えないことも、全部が喉の奥で絡まって、「ごめんなさい」以外の言葉が見つからなかった。


 カイルの胸元のシャツを握りしめた。布が皺になるのも構わずに、指を食い込ませた。ボタンの縁が掌に当たって硬かった。


 カイルの腕に、また力がこもった。



「もう、いいんだ」



 声がかすれていた。



「生きて、戻ってきてくれた。それで、いいんだ」



 カイルの肩が震えた。声を殺そうとして、殺しきれずに、喉の奥から短い呼吸が漏れた。


 胸元を握りしめたまま、顔を埋めた。シャツの布が涙で濡れていくのが分かった。


 カイルの心臓の音が聞こえた。速かった。


 言葉はもう、何も出なかった。


 カイルも黙っていた。何かを言おうとして、声にならなくて、また腕に力を込め直す。その繰り返しだった。


 廊下の燭台の灯りが、壁に二人の影を映していた。震える肩と、重なった腕と、離れない指先が、一つの輪郭になって廊下の石畳の上を長く伸びている。


 どちらからともなく、泣き声が小さくなっていった。涙が止まったのではなかった。声を出す力が残っていなかっただけだった。


 呼吸だけが互いの体を揺らしていた。カイルの胸の上下と、自分の肩の上下が、少しずつ同じ速さになっていった。


 カイルの腕がようやく緩んだ。離れた瞬間、廊下の空気が冷たかった。



「今日は、もう寝ろ。明日、ちゃんと飯を食え」



 声はまだかすれていた。でも、二日間聞けなかった優しさが、最後の一語に戻っていた。


 背中を向けて、自分の部屋の方へ歩いていった。足音が遠くなって、角を曲がって、消えた。


お読みいただき、ありがとうございました。

この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ