第158話 「話しておきたいことがある」
朝食の皿が下げられた頃だった。
「みんなに、話しておきたいことがあるの」
食卓の視線が集まった。トールのスプーンが皿の縁で止まり、ミナがこちらを見た。フィオレの兎耳がぴくりと伏せられた。
「骨塚のヴェルガリオン討伐のこと。ギルドの速報で知ってる人もいると思うけど、私の口から」
「知ってる」
カイルの声が遮った。低かった。
聞き慣れた声のはずなのに、底の方に知らない色が混じっていた。
「帰りの街道で聞いた。ギルドの速報が出回っていた」
灰色の瞳がこちらを向いた。
朝食の席に着いてからずっとカイルは、何かを堪えている顔をしていた。
「お前は同行していた、ということだろう」
「はい」
「勇者七組が全滅した竜のところに、俺に黙って行ったのか」
「はい」
カイルの拳が食卓を叩いた。
皿が浮き、杯の中の水が揺れて、食堂に音が響いて、消えた。
「俺は、何だったんだ」
声が割れていた。
「お前を守ると、何度言ったと思ってる」
唇を噛んだ。
何も言えなかった。
「修行に行ったのも、お前のためだ。焔渦を覚えたのも、トールと二人で組めるようにしたのも、全部、お前を守れるようにするためだ」
食卓の全員が黙っていた。トールが視線を皿に落とし、ミナが唇を噛んでいる。
「なのに、お前は俺を置いて、ヴェルガリオンとの戦闘に居合わせた」
「俺の知らないところで、お前が死んでいたかもしれない。それを、俺は一ヶ月知らずに、山で剣を振っていた」
声が途切れた。
カイルの肩が上下している。呼吸が乱れていた。
「俺は、お前にとって、何だ」
答えなければいけなかった。
でも、何を答えればいい。
――本当の理由は言えない。
カイルを連れていけなかった理由。
本気を出せば「ただ者じゃない」と気付かれる。
気付かれれば、神の契約が動く。記憶が全部消える。
カイルとのことも、ノクスとのことも、この一ヶ月で得た全部が。その恐怖が、嘘をつかせた。
「カイル殿下、リーラ嬢には事情が」
ヴィオラが椅子から立ち上がった。
「ヴィオラ殿」
カイルの視線がヴィオラに向いた。声が刃のように細かった。
「口を挟まないでくれ。これは、俺とリーラの問題だ」
ヴィオラが唇を引き結んで、静かに座り直した。
食卓の空気が重かった。カイルの呼吸と、自分の鼓動と、誰も箸を動かさない静寂だけが残っていた。
「ごめんなさい」
言葉が喉に引っかかった。
「私の、判断ミスだった、というしかない」
言葉を選んでいた。選ぶしかなかった。
本当のことは、何一つ口にできない。
「ヴィオラさんが浄化のため、と頼んできて、私とノクスの古代知識が要ると言うから、つい承諾した」
嘘ではなかった。嘘ではないが、真実の半分すら伝えていなかった。
「あなたに言ったら止められると思って、黙ってしまった」
これだけは本当だった。
カイルに伝えたら、絶対に付いてくると言う。勇者パーティーが全滅した相手の前に、この人を立たせるわけにはいかなかった。
――でも、その理由の本当の理由は、永遠に言えない。
カイルの背中が見えた。こちらに向けられた背中。
窓から差し込む昼の光がシャツの肩を白く縁取っていた。肩の筋が一度だけ大きく震えて、止まった。
カイルが立ち上がって、食堂の扉を開けた。振り返らなかった。
足音が廊下を遠ざかっていった。一歩ごとに遠くなる革靴の音を、扉の隙間から聞いていた。
音が消えた後も、耳の奥にはまだ残響が鳴っていた。
その日の午後から、カイルは口をきかなくなった。
朝食の席には現れた。いつもと同じ場所に座り、いつもと同じ量を皿に取り、いつもと同じ速度で食べた。
ただ、一度もこちらを向かなかった。
自分の食事が喉を通らなかった。
スープを口に運んで、飲み込んで、味がしなかった。パンを千切って、千切ったまま皿に戻した。
ミナが「ちゃんと食べなさい」と声をかけてくれた。
頷いて、スプーンを握り直して、また置いた。
トールが心配そうにこちらを窺っていた。何か言いかけて、ミナに肘を突かれて口を閉じた。
ノクスが膝の上にいた。いつもより体を丸める位置が深くて、太腿の内側に額を押し当てていた。
帰還した日より、少しだけ重くなっている。手のひらに収まっていた体が、両手で包むくらいにはなっていた。
翌日の夜、食卓でカイルに怒られてから二日目の夜だった。
自室に戻って、ベッドの端に腰を下ろした。そのまま膝を抱えた。
――カイルは、もう、私の顔を見ないかもしれない。
膝を抱える腕に力が入った。爪が自分の二の腕に食い込んだ。
食堂で背中を向けて出ていったカイルの足音が、まだ耳の奥に残っている。扉が、静かに叩かれた。
「リーラ嬢」
ヴィオラの声だった。
「どうぞ」
ヴィオラが入ってきた。深紅の髪が燭台の灯りを受けて、廊下の暗さを引きずったまま室内に流れ込んだ。
長耳の先が夜の冷気に触れて赤くなっている。
「お加減は」
「大丈夫です」
嘘だった。
ヴィオラには見えているはずだ。膝を抱えたまま動かない体も、乾いた唇も、二日間ろくに食べていないことも。
「ヴィオラさん」
声がかすれた。
「私、カイルに、絶縁されるかもしれない」
ヴィオラが椅子を引いて座った。膝を揃えて、正面からこちらを見ていた。
「殿下は、そういう方ではございません」
「分からない」
膝を抱える指が白くなっていた。
「私、嘘をついた」
声が震えた。
止められなかった。二日間、自室の中でずっと繰り返していた言葉が、ヴィオラの前で初めて口を突いて出た。
「お父様とお兄様を救う触媒のためだったって、言えばよかった。でも――言ったところで、同じだった。あの人が怒っているのは、行った理由じゃない。黙って行ったことだから」
ヴィオラは口を挟まなかった。
「私、これから先も、ずっと、嘘をつき続ける女のままで、カイルの隣にいられるのかな」
「もし、ここで絶縁されたら、私は、それを受け止めるしかない。私が嘘をついた事実は、もう変わらないから」
ヴィオラの手が伸びてきた。肩に、そっと触れた。
記録者の手は、思いのほか小さかった。
「リーラ嬢」
ヴィオラの声が変わっていた。いつもの神官の声ではなかった。
ただの年上の女の、ただの優しい声だった。
「今夜はゆっくりお休みください。明日、また一緒に庭を歩きましょう」
笑顔だった。穏やかで、静かで、何も心配することはないという顔だった。
「ありがとう、ヴィオラさん」
ヴィオラが立ち上がった。椅子を元の位置に戻して、扉に手をかけた。
「おやすみなさいませ」
扉が、静かに閉まった。
廊下側で、ヴィオラの足音が止まった。数秒、何も聞こえなかった。
足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
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