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第157話 「ただいま」

 別邸の門が軋んだのは、庭の薬草に朝露が残っている時刻だった。私は窓辺で紅茶を冷ましていた。


 その手が止まった。門の向こうに、見覚えのある金色の髪が見える。


 フィオレが玄関の扉を開けて、石段の下まで駆け降りた。白い兎耳が朝日の中でぴんと立ち、門の向こうに一ヶ月ぶりの二人を認めた瞬間、耳がぱたりと前に倒れて、すぐにまた起き上がった。



「お帰りなさいませ」



 声が震えていた。


 フィオレの目元が赤い。一ヶ月、この広い別邸をたった一人で守り続けた少女の声だった。


 最初に門をくぐったのはカイルだった。革の胸当てに北方山脈の砂塵がこびりついている。肩幅が一回り広くなったように見えたのは、纏う空気が変わったからかもしれない。


 半歩後ろにトールが続く。背中の大盾に新しい打痕がいくつも刻まれていて、腕の筋肉が出発前とは明らかに違う太さになっていた。


 紅茶を窓辺に置いて食堂の入口まで歩いた。カイルの視線が玄関の奥を一度走って、止まった。銀色の髪が朝の光を受けて白く光っているのが、窓の反射で、自分でも分かった。


 左腕はまだ細い。


 でも、カイルの目が、何かを確かめるように、一度だけ瞬きをした。



「戻ってきた」



 カイルの声は低かった。ただそれだけの言葉に、北方山脈で過ごした三十日の重さが全部乗っていた。



「うん。お帰り、カイル」



 笑うと、カイルの顔から砂塵の疲労が一瞬だけ消えて、すぐに戻った。


 口元が引き結ばれた。何か言いかけて、飲み込んだ。


 肩の上で、ノクスが小さく鳴いた。カイルの視線が肩に落ちた。


 止まった。手のひらに乗るほどの子猫がいた。金色の目だけが変わらない。大人の目が、子猫の顔についている。



「ノクス、か」



 頷いた。それ以上は言えない。


 カイルの顔が強張ったまま、視線がノクスから私に戻った。何かを問いたい目だった。でもここでは聞かなかった。


 トールが盾を玄関の壁に立てかけながら「ただいまっす」と声を張った。


 肩の上のノクスに気付いて、足が止まった。



「え、ノクス殿、ちっちゃ」



 ノクスの金色の目がトールを睨んだ。尾がぴしりと一振り。


 トールの口が閉じた。



「お元気そうで何よりっす」



 ノクスが顔を逸らした。前足でこちらの襟を踏んで、丸まり直した。


 肩の上で、小さな喉がかすかに鳴り始めた。怒っているのか甘えているのか、この大きさだと区別がつかない。


 フィオレが「トール様もお変わりなく」と微笑む横で、トールの視線がすでに食堂の奥を探している。


 ミナは食堂の隅の椅子に座っていた。昨夜遅くに別邸に戻っていたらしい。頬杖をついて、窓の外を見ているふりをしている。


 トールが入ってきた瞬間、視線が動いた。動いて、すぐに窓に戻った。


 指先が椅子の肘掛けを握り込んでいる。



「あ、あんた、また怪我してないでしょうね」



 声が裏返りかけていた。


 窓を見たまま。顔をこちらに向けない。



「無事っす」



 トールが腰の袋から何かを取り出した。小さな細工物だった。山の石を削って磨いた、掌に収まるほどの小さな盾の形をした飾り。表面に、不器用な線で花が一輪刻んである。



「あの、これ、ミナさんに」



 差し出された手を、ミナがちらりと見た。石の盾。花の線。トールの指先に、鍛冶仕事でできた古い火傷の跡と、新しい擦り傷が重なっている。


 ミナが両手で包むように受け取って、しばらく黙っていた。



「ばか」



 顔を逸らした。声が小さかった。指先が石の盾をぎゅっと握り込んでいる。


 ガーレンが廊下の奥から現れた時、書斎の扉が同時に開いて、ルーシェが出てきた。


 ガーレンがルーシェの椅子を引いた。ルーシェが何も言わずに座った。食卓の空気が微かに揺れた。


 カイルがパンを千切る手を止めて二人を見て、すぐに視線を戻した。ミナの眉が片方だけ上がった。トールだけが気付いていないらしく、スープの二杯目をおかわりしている。


 シャルロットが最後に食堂に入ってきた。


 スイオン島から昨夜遅くに戻ったらしい。髪を後ろで緩く束ねている。スイオン島の潮風で少し髪色が明るくなったように見えた。双剣は腰に下げたまま。


 ただ、目元が、柔らかかった。


 出発前にはなかった柔らかさが、口元にも、瞼の端にも浮かんでいる。


 ミナが首を傾げた。



「あら、シャロ姐さん、何かあった?」



 シャルロットの口元が引かれた。扇子を持っていた頃の、社交界の白薔薇の面影が冒険者の顔に一瞬だけ浮かんで消えた。



「別に。島の風が気持ちよかっただけよ」



 嘘だった。


 この人の「別に」は、聞くなという意味だ。


 ミナがにやりと笑った。



「男でしょ」



 シャルロットの眉が片方だけ上がった。



「あ、あんたこそ、盾の坊やとはどこまでいったの?」



 ミナが紅茶を吹いた。



 全員が笑った。



 トールだけがきょとんとしてスープの匙を止め、首を傾げている。


 カイルの視線がヴィオラに向いた。ヴィオラが小さく会釈した。深紅の髪が朝日に透けている。長耳の先端が微かに動いた。


 ヴィオラと目が合った。


 あの夜のことは、二人の間では言葉にしなくてよかった。


 肩の上で、ノクスが大きなあくびをした。口が限界まで開いて、牙が見えて、ぱくりと閉じた。尾が一度だけ揺れた。


 ノクスの体はまだ小さいままだった。肩に乗ると軽すぎて、時々いるのかいないのか分からなくなる。


 フィオレが紅茶を注いで回った。一人ひとりの杯に、丁寧に、同じ高さまで。兎耳が嬉しそうに前後に揺れている。一ヶ月ぶりに全員分の杯を並べられることが、この子にとっては何よりの喜びなのだろう。


 パンを千切りながら、食卓を見渡した。カイルが干し肉を齧っている。トールがスープを三杯目おかわりしている。ミナが石の盾をエプロンのポケットに仕舞いながら、トールの食べっぷりに呆れた顔をしている。


 ガーレンが黙ってコーヒーを飲んでいる。


 ルーシェがその隣で古文書のメモを広げかけて、フィオレに「お食事中ですよ」と叱られて慌てて畳んでいる。


 シャルロットが紅茶を一口飲んで、窓の外に目をやっている。ヴィオラが微笑んでいる。


 肩の上で、ノクスが小さな喉を鳴らし始めた。ごろごろと、低く、ゆっくりと。



 ――みんな、帰ってきた。



 前世は、ずっと一人だった。塔の中で、ノクスと二人きりで、誰の声も聞こえない部屋で食事をしていた。


 今、この食卓には十人いる。うるさくて、騒がしくて、温かい。


 目の奥が熱くなった。パンを千切る手が止まった。誰にも気づかれないように、一度だけ、瞬きした。


お読みいただき、ありがとうございました。

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