第156話 ノクス様の偉業です
後日、ギルドの最新地図に新しい地名が追加された。ノクスの硝子原野。
数日のうちに大陸中の冒険者ギルドに速報が飛んだ。
「ノクス殿S級昇格。骨塚のヴェルガリオンをパーティで討伐」。
ヴィオラと並んでギルドの掲示板を見上げた時、二人とも同じ顔をしていた。
「お父様にどう説明すれば」
「『ノクス様の偉業です』で押し通しましょう」
ヴィオラの口元が緩んだ。
深紅の髪が掲示板の灯りを受けて、淡く光っている。ノクスが肩の上で目を閉じたまま、耳だけ動かした。
二人と一匹だけが知る秘密。大陸を震わせた竜殺しの正体は、肩の上の子猫と、銀髪の助手と、深紅のエルフ。
ギルドを出て、中層の石畳を歩いた。夕方の街路は人通りが多い。
露店の屋台が並んで、串焼きの煙と焼きパンの甘い匂いが混ざって漂っている。通りすがりの子供達が、ノクスを指差した。
「黒猫さんっ!」
「ふわふわ!」
三人の子供が駆け寄ってきた。一番小さい女の子が、つま先立ちでノクスに手を伸ばした。
ノクスの耳がぴくりと動いて、尾がひと振り。
それだけの返事だった。
「触ってもいい?」
肩を少し下げた。
女の子の手がノクスの頭に触れた。小さな指が耳の後ろを掻いて、ノクスが目を細めた。
「ふわふわだ!」
「あったかい!」
子供達が代わる代わる撫でていく。ノクスは動かなかった。
前足を肩の上に揃えて、撫でられるがままにしている。金色の目だけが開いていて、子供の一人一人を順に見ていた。
老婦人が足を止めた。買い物籠を腕にかけて、ノクスを覗き込んだ。
「あら、可愛い子。撫でていいかしら」
ノクスが自分から頭を擦り寄せた。
老婦人の手のひらに、黒い毛並みが滑り込む。ごろごろと喉が鳴り始めた。
「まあ、人懐っこい子ねえ。賢そうな目をして」
(普段、家じゃ、お皿の前で偉そうにしてるくせに)
小声で呟いたつもりが、ノクスの耳が片方だけこちらに向いた。前足で私の鎖骨を一度踏んだ。
黙れ、の踏み方だった。露店の屋台のおじさんが身を乗り出した。
「お嬢ちゃん、この子に小魚あげていい?」
干物の皿から小さな銀色の魚を一匹、差し出した。
ノクスの鼻先がひくついた。
一瞬だけ金色の目が魚に釘付けになって、ぱくり。
尾の先が嬉しそうに揺れた。子猫の体のくせに、食べ方だけは堂々としている。
小魚を三口で飲み込んで、口の端を前足で一度拭った。おじさんが笑った。
「お利口さんだなあ。もう一匹食うか?」
ノクスの尾がもう一度揺れた。
二匹目もぺろりと平らげて、肩に戻ってきた。前足の間に顎を乗せて、丸くなった。
小さな喉が、ゆっくりとした音で鳴り始めた。ごろごろ。
ごろごろ。世間で山脈を消し飛ばしたことになっている魔法猫と同じ生き物から出ている音だなんて、誰も思わない。
ヴィオラが私の横を歩いていた。長耳の先が、わずかに動いた。
口の端を細めている。
「このギャップ、神の采配にございますね」
ノクスの背を撫でた。黒い毛並みが指の間を通り抜けて、柔らかくて、温かくて、子猫特有の軽さがあった。
この手のひらに収まるくらい小さくなってしまった体。影のブレスを全部吸って、言葉まで失って。
「うん。街では、ただの黒猫でいてもらわなきゃ。あの『魔法猫ノクス様』だってバレたら、大騒ぎだもの」
ノクスが目を閉じたまま、耳だけ動かした。
夕陽が石畳を橙色に染めていた。ノクスの黒い毛並みに、金色の光の輪が散っている。
小さな耳の先が夕陽に透けて、薄い桃色に光った。通り過ぎる人々の目には、ただの可愛い黒猫を肩に乗せた銀髪の少女と、深紅の髪のエルフ。それだけだった。
大陸を震わせた竜殺しの三人組には、絶対に見えない。
石畳の先で、露店の灯りが一つずつ点き始めている。
夕陽が沈んでいく。ノクスの喉が鳴り続けている。
肩の上の小さな温もりを感じながら、別邸への道を歩いた。カイルに渡す黒い結晶が、腰の袋の中で、まだ静かに脈を打っている。
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