第153話 帰ってきた
ヴィルヌアの街並みが見えた時、ノクスの耳がぴくりと動いた。半月ぶりの帰還だった。
焼け野原から街道の端まで歩いて戻ると、シャルートが繋いだ場所で草を食んでいた。来た道を逆に走らせて帰ってきた。
左腕がまだ痺れている。ヴィオラの肋骨は応急の治癒で歩ける程度には戻ったが、深く息を吸うたびに眉が寄った。
道中、一度だけ気になることがあった。馬車の乗り継ぎで立ち寄った宿場町で、ヴィオラが急に足を止めた。
往来を行き交う人々を見つめて、銀色の瞳が微かに揺れている。すぐに歩き出したが、私は見逃さなかった。
「ヴィオラさん?」
「いいえ。何でもございません」
何でもない、という顔ではなかった。何かを見た顔だった。
見たくないものを、見てしまった顔。
「覚醒してから、少し、見えすぎるようになりました」
それだけ言って、ヴィオラは前を向いた。意味を聞き返す前に、話は終わっていた。
ヴィルヌアの大通りは、その話で持ちきりだった。
「だから言ってんだろ、山がねえんだよ。南方の山脈が、丸ごと」
「嘘つけ。山が消えてたまるか」
「俺も見たんだって。隊商の帰りに通った。あるはずの場所に、何にもねえ。地平線まで、つるっつるの硝子みてえな平原だ」
「噴火でもしたのか?」
「そんなんじゃねえ。煙も溶岩もねえ。ただ、消えてたんだ。空から白い灰だけが、ずっと降ってる」
露店の前で、商人と荷運びの男が言い合っていた。周りに人だかりができて、誰も信じていないのに、誰も立ち去らない。
隣のヴィオラと、目だけで顔を見合わせた。
噂は、私たちより先に帰り着いていた。
ギルドの扉を押した。
カウンターの奥で書類を整理していたギルドマスターのグレヴァが、顔を上げた。額に汗が浮いた。
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、カウンターの端を掴んだ。
「ノクス殿、その、お体が」
ノクスを見て、目が丸くなっていた。成猫だったはずの体が、手のひらに乗る子猫になっている。
「壮絶な戦いだったのですな」
肩の上でノクスが大きく欠伸をした。
机の上に、焼け野原の地図を広げた。馬車の中でヴィオラが記憶を頼りに書き起こした地図で、山脈の等高線は途中で全て消えている。
空白の円が、地図の中央に大きく描かれていた。その横に、古竜の鱗を一枚、置いた。
人の頭ほどの大きさ。黒く厚い。
表面の溝に指を滑らせると、微かに古い魔力が脈打つのが分かる。グレヴァの手が伸びた。
鱗に指先が触れて、裏返して、縁を爪で弾いた。高く澄んだ音がギルドの天井に響いた。
周囲の冒険者たちが手を止めた。書類を書いていた手が止まり、食事中の箸が止まり、会話が途切れた。
グレヴァの顔色が変わった。
「これは、正真正銘、ヴェルガリオンの鱗だ。何百年も伝承だけで、現物を見た冒険者は誰もいなかった」
ざわめきが広がった。奥のテーブルから冒険者が二人、三人と立ち上がって近づいてくる。
「グレヴァ殿、お願いがございます」
グレヴァが顔を上げた。
汗を拭う暇もない。
「地図を、書き換えていただきたいんです。山が、本当に、消えてしまって。残ったのは硝子の荒野だけ。今の地図のままだと、街道を行く冒険者や商人が、ない山を目印に道に迷います」
グレヴァが卓を二度叩いて、完全に立ち上がった。
「山脈一つ分の。地図の書き換え、ですか」
「はい」
グレヴァの喉が鳴った。
「実は、一週間ほど前から商人や旅人の報告が山ほど届いていましてな。『南の山が消えた』と。冗談だと思いながらも、測量士団を既に現地へ出してあります。そろそろ戻る頃合いです」
額の汗を拭って、声を落とした。
「確認が取れ次第、ギルド本部に申請を上げて、各国の地理院に通達します」
「ありがとうございます」
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