第150話 「――気に入った。全部くれてやる」
膝が折れかけた瞬間、体の内側で何かが弾けた。
死ねない。
まだ、死ねない。
体の奥で、もう一人の私が目を開けた。
髪が、左半分だけ、根元から墨を垂らしたように黒く染まっていく。
左の瞳に熱が走った。血管の中を別人の魔力が走って、指先が勝手に動いた。記憶が雪崩れ込んだ。
古代の景色。焼けた空。
塔の最上階で「次の時代に頼む」と書き残した夜の、墨の匂い。
二百年住んだ塔からの落下。十八年分の記憶も並走していた。
父の声。母の薬草の匂い。ノエルの歌。カイルの串焼き。ノクスの鈴の音。
どちらも本物だった。
「カイルを守りたい」と「心臓の角度は左後方三度」が同時に湧いた。古語が口の奥で詠唱されかけて、現代語の悲鳴が喉を押し上げてきた。
「なに、これ、誰、誰かいる、出て、いって」
声が裏返った。右手が古代の印を結ぼうとして、左手がそれを押さえた。自分の両手が別々の意志で動いている。
視界の左半分だけが、薄く金色がかって見えた。死にかけの恐怖と、別人が体の中に入り込んできた恐怖が、同時に襲った。
ヴィオラさんが、振り返った。結界を片手で維持したまま、私の前に膝をついた。
焼けただれた指先が、私の頬を挟んだ。熱かった。
「リーラちゃん聞こえてる? あんたはあんただよ」
二つの意識の隙間を、ヴィオラさんの声が貫いた。
それから、目の奥の、金色に変わりかけた瞳の、もっと奥を見つめて。
「あんたも、聞いてるでしょ。五千年前の、リーラちゃん」
体の内側で、何かが揺れた。
「あの夜、塔の麓で、あたし逃げた。あんたを一人で死なせた」
ヴィオラさんの目から、涙が一筋落ちた。蒼銀の髪の下で、記録者の瞳が、あの夜からずっと抱えてきた後悔を湛えていた。
「今度は、逃げない。ここにいる。だから」
私の手を、両手で包んだ。
「二人で、撃とう」
ヴィオラさんの声だった。
蒼銀の髪が灰まみれで、口の端に血が乾いていて、それでも笑っていた。体の内側で、別の声がした。
(――聞いたか、ちび)
低くて、太くて、呆れたような声だった。
(ヴィオラが来たぞ。五千年遅れでな)
震えていた。全身が震えていた。二つの記憶が渦を巻いて、どちらが本当の自分か分からなくなりかけていた。
だけど、ヴィオラさんの手が、温かかった。
焼けた指先で、私の手を離さなかった。
声を絞り出した。
「あんたの記憶も、力も、もらう。でも使うのは、私」
右手の震えが止まった。内側で、呆れたような笑い声がした。
(生意気だな、ちび)
間があった。長い間だった。
(――気に入った。全部くれてやる。持っていけ)
髪の左半分の黒が右半分にも広がり、銀が消えて黒が全体を覆った。目の奥が、燃えるように熱くなった。
だけど意識は。私自身のままだった。
ヴィオラさんの手を、握り返した。
「行きましょう、ヴィオラさん」
ヴィオラさんの息が一度だけ詰まった。
私の姿を見て、大きく見開かれた目が、そのまま、笑った。
泣きながら、笑った。
「……五千年前の、あの方と、同じ金の瞳にございます」
「はい」
二人で立ち上がった。ヴェルガリオンはまだ暴れていた。
翼が山肌を叩き、尾が岩盤を砕き、口から炎と影を撒き散らしている。崩れた山の向こうで、別の峰が崩落する音が響いた。
私たちが立ち上がった瞬間、金色の目が、こちらを捉えた。黒い髪を見ていた。銀だったはずの髪が、全部黒に変わった私を。
「虫けらが。その姿は」
「あの夜も――我の鱗を!」
声が咆哮に変わった。五千年前の屈辱を思い出して、怒りが手のつけられない域に達していた。
骨塚の残骸が衝撃波で吹き飛んだ。翼が叩きつけられて山肌が割れ、炎と影が入り混じったブレスが四方に撒き散らされた。
もう狙ってすらいない。怒りだけで、周囲の山ごと壊していく。
全力の一撃が、こちらに向かって放たれた。
ヴィオラさんが左手で結界を展開した。蒼銀の壁がブレスを受け止めて、二人の周囲だけを守る。右手は私の手を握ったまま離さない。
結界が軋んで、ひび割れていく。保って数秒。十分だった。
繋いだ手から、二人の魔力が合流した。白い焔と蒼銀の神官術が混ざり合って、見たことのない色になった。
前世の記憶が体の中にある。あの時は一人で術式を組んで、声に乗せて、時間をかけて練り上げた。今は違う。隣に、ヴィオラさんがいる。
空いた手を、二人同時に掲げた。
声が重なった。
「星よりも古きもの、灰よりも白きもの」
私の声だった。
ヴィオラさんの声だった。
どちらが先に唱え始めたのか、分からなかった。
「天の果てに沈みし光。覚めよ、眠りし星」
繋いだ手が震えていた。
ヴィオラさんの指が、私の指が、互いにしがみつくように絡んでいた。
涙が頬を伝った。
「落ちよ。巡り巡りて、還れ」
声が一つになった。
「遥かなる光の名において我ら、灰よりも白き星を呼ぶ」
空が裂けた。
裂けた空の向こうから、白い光の塊が落ちてきた。
尾を引いていた。白い尾が空を割って、骨塚めがけてまっすぐに降下していく。
星だった。小さな星が一つ、空から落ちてきた。
光が、骨塚に触れた。音が消えた。
ヴィオラさんが繋いだ手を離さないまま、もう片方の手で結界を張った。
蒼銀の球が、二人を包み込んだ。
瞬間、白い焔が、山脈ごと呑み込んだ。
骨塚も。
ヴェルガリオンも。
周辺の山七つも。
白い柱が天を貫いて、空の裂け目まで繋がった。
熱が光になり、光が風になり、風が全てを押し流した。結界の外が全部白くなった。
音も熱も、蒼銀の膜一枚の向こう側で暴れていた。
ヴェルガリオンの咆哮が聞こえた。光に呑まれながら、最後まで怒り狂っていた。
「消えぬ――我は、消えぬぞォォッ!」
金色の目が、光の中で燃えていた。
光が収まった。膝をついた。力が全部抜けた。
視界の端で、垂れた毛先の色が変わっていた。黒が抜けて、銀が戻ってくる。
ヴィオラの手が肩を支えた。腰の封印具を見た。
三層の光は、全て消えていた。
あと数秒遅ければ、再生が始まっていた。
後に残ったのは。真円形の平原だった。
地表が硝子化していた。高温で岩が溶けて再凝固して、透明な平面が地平線まで広がっている。
骨も、山も、古竜も、全部消えていた。空から、白い灰が降ってきた。雪のように。音もなく。
焼け尽くされた山と古竜の最後の残滓が、粒の細かい灰になって、硝子の平原に積もっていく。硝子の地面に灰が触れるたびに、光を散らした。
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