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第149話 蒼銀の覚醒

 その時、ヴィオラの体が痙攣した。胸が持ち上がった。背中が反って、口から空気を吸い込む音がした。一度。深く。死んだはずが、息を吹き返した。


 髪の色が変わった。深紅が根元から一瞬で蒼銀に染まっていく。水面に墨を落としたように、毛先まで一息で蒼銀の光が走り抜けた。眉も、睫毛も、全部が蒼銀に変わった。



 閉じていた瞼が開くと、銀の目だった。



 翡翠の色が消えて、瞳の奥まで全部、銀。


 立ち上がった。折れた肋骨を抱えたまま。脈がなかった体が、平然と立っている。



「五千年前さ、あたし、ここで逃げたんだよね」



 声が違った。



「今度は、逃げないから」



 空気が変わった。ヴィオラの周囲の瘴気が、蒼銀の光に押し退けられて消えていく。肌が粟立った。骨塚の空気そのものが震えている。


 さっきまでのヴィオラさんとは、纏っている魔力の桁が違った。


 私の全力と比べても、遜色ない。



 五千年前の神官の、本来の力を感じた。



 ヴェルガリオンの前足が振り下ろされた。ヴィオラが片手を上げた。蒼銀の結界が一枚、掌の前に展開された。前足が結界に触れた瞬間、弾き返された。建物ほどの前足が、片手一枚の結界に押し返されて、ヴェルガリオンの巨体がよろめいた。骨塚が揺れた。ヴェルガリオンの金色の目が見開かれた。


 ヴィオラは振り返りもしなかった。



「リーラちゃん、封印具あとどれくらいある?」



 腰の封印具を見た。銀の層だけが薄く脈打っている。



「あと、一分くらい」



「余裕じゃん」



「ヴィオラ、さん? 前世の、ヴィオラさんなの?」



「そ。あたし」



 涙を拭った。子猫のノクスをポケットに入れた。泣いた顔のまま、封印具を握り直した。



「あんたの焔で致命傷いかないの、あれ影の防御膜のせいじゃん」



 ヴィオラさんの目が、私のポケットに向いた。



「でもね、ノクスくんがもう食べてくれてんの」



 息が止まった。ノクスが影のブレスを全部呑み込んだ。あの子猫の姿は、体の魔力を使い果たした代償だった。


 でもそれは、ヴェルガリオンの体から影属性の魔力が減ったということでもある。ノクスは最初から、分かっていたのだ。


 ポケットの中で、小さな前足が私の指を一度踏んだ。爪は出していない。



「一分か。いくよ」



 封印具に魔力を注ぎ込んだ。


 白い光が噴き出して、発動した。


 ヴェルガリオンの巨体に二度目の封印光が走った。再生が止まる。あと一分。


 走り出した。ヴェルガリオンの金色の瞳が怒りで細まった。前足が振り下ろされる。


 硝子化した地表が砕けて破片が弾丸のように飛び散った。横に跳んで躱し、着地の反動で膝が悲鳴を上げた。


 ヴィオラさんが、その隙に、ヴェルガリオンの左脇腹へ走り寄っていた。走りながら両手を広げる。


 蒼銀の髪から光の糸が何百本も伸びて、傷口の黒鱗に触れた瞬間、古代語の詠唱が空気を震わせた。聞いたことのない言葉だった。古代の神官術。記録者だけが保持していた解呪式。


 黒鱗が剥がれ始めた。一枚ではない。傷口を中心に、周囲の鱗が連鎖的に浮き上がって、内側の赤黒い筋肉が露出していく。


 ヴェルガリオンが咆哮した。怒りと驚愕が混じった叫び。


 この人が、こんなに強かったのか。折れた肋骨を抱えたまま、ヴィオラさんは止まらなかった。


 ヴェルガリオンの尾が横薙ぎに振られる。骨塚の地表ごと抉る一撃を、蒼銀の結界を片手で展開して受け止めた。


 結界が悲鳴を上げて撓んだが、割れない。深紅だった結界が、覚醒後は蒼銀に変わっている。硬さが、桁違いだった。


 尾を受け止めながら、もう片方の手で解呪を続けている。二つの魔法を同時にこなす。


 鼻から血が垂れていた。指先の皮膚が焼けて白い煙を上げている。それでも手は止まらなかった。


 鱗が剥がれていく。道が開いていく。露出した筋肉の奥に、何かが脈打っているのが見えた。


 赤黒い肉の層のさらに奥。心臓だ。


 影属性の防御膜が、傷口の奥で黒く揺らいでいる。薄い。ノクスが食べた分だけ、確実に薄くなっている。でもゼロではない。



「リーラちゃん、今っ!」



 声が裏返りかけていた。杖は折れている。素手に白い焔を集めた。


 腹の底から背骨の刻印を通って、両腕に、指先に、全部を注ぎ込む。杖がないぶん、焔との距離が近い。


 ヴェルガリオンの前足が横薙ぎに振られた。巨大な爪が空気を裂いて頭上を通過する。


 髪が数本切れて散った。頭を下げたのが半瞬早かった。


 前足の下をくぐり抜けて、露出した筋肉の壁面に取りついた。指が肉に食い込む。古竜の体温で掌が焼けた。構わなかった。


 心臓まで、あと二歩。筋繊維の隙間に足をねじ込んで、壁を登るように這い上がる。


 ヴェルガリオンが身を捩った。振り落とそうとしている。片手が外れかけた。歯を食いしばって握り直す。



 あと一歩。



 心臓の直上にある肉の壁が目の前にある。影の膜が薄く揺らいで、触れたものを拒絶するように黒い火花を散らしている。



「ヴィオラさん、結界を!」



「おっけ!」



 下から最後の結界が射出された。円筒形。私の右腕をすっぽり覆うように、焔を収束させる砲身が形成される。ヴィオラさんの限界の、最後の一回。


 結界砲の内側に焔を注ぎ込む。白い光が圧縮され、指先の一点に集中する。砲身が軋む音がした。結界が内側の圧力に耐えかねて、ひび割れ始めている。



「星よりも古きもの、灰よりも白きもの――地の底に眠りし炉の名において――我ここに焔を誓わん」



 拳を、叩き込んだ。



「九つの門を開き、七つの鎖を断ち、三つの封を灼き尽くせ――灰燼に帰せ――!」



 影の膜が弾けた。焔が肉の壁を貫通して、ヴェルガリオンの心臓へ一気に流れ込んでいく。ヴェルガリオンの咆哮が変わった。怒りでも痛みでもない。


 巨体が暴れるように身を捩って、しがみついていた私を振り落とした。地面に背中から落ちて三度転がって止まる。視界が白黒に明滅する。


 封印具の効果が切れかけていた。ヴェルガリオンの体を縛っていた白い紋様が、端から薄れて消えていく。



 でも、心臓に、届いた。



 焔が心臓に入った手応えがあった。


 ヴェルガリオンの巨体がゆっくりと傾き始める。金色の瞳が私を見下ろしていた。


 倒れない。傾いた巨体が、再び起き上がった。


 傷口から黒い血が噴き出して、骨塚の白い地表を黒く染めていく。致命傷には、届かなかった。


 咆哮が上がった。さっきまでとは違う。目が据わっていた。


 前足が骨塚の地表を叩き割った。岩盤ごと隆起して、骨の山が四方に弾け飛んだ。尾が薙ぎ払われて、骨塚を覆っていた山の壁面が丸ごと崩落した。天蓋が消えて空が見えた。


 翼が広がった。一度羽ばたいただけで、周囲の山の樹木が根こそぎ倒れていく。


 ヴェルガリオンの口から炎と影が同時に噴き出した。制御を失った二つの属性が混ざり合って、骨塚の山を貫通した。向こう側の山肌が爆ぜて、稜線が一つ消えた。


 地面が揺れている。骨塚だけじゃない。山脈全体が震えていた。遠くの峰が崩れ始める音が聞こえた。


 大陸を滅ぼせる竜が、理性を失って暴れている。このまま止められなければ、この山脈ごと、周辺の国ごと、全部消える。


 杖はもうない。封印具もあと少ししかもたない。


 ヴィオラさんが、私の前に立った。蒼銀の髪が風に巻き上げられて、折れた肋骨を庇いながら、両手で結界を張っている。


 ヴェルガリオンの尾が薙ぎ払われるたびに、蒼銀の壁が軋み、砕け、また張り直す。何度も。



「リーラちゃん、下がって」



 振り返りもしない。ヴェルガリオンの前足が結界を叩いた。蒼銀の光が弾けて、ヴィオラさんの足が地面にめり込んだ。


 それでも、倒れなかった。覚醒した転生者の体が、古竜の暴走を真正面から受け止めている。


 私だけが、動けなかった。


お読みいただき、ありがとうございました。

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