第148話 三分
ヴィオラの封印鎖は三本とも切られた。結界を重ね掛けした指先の皮膚が焼けただれて、赤く腫れている。結界砲をもう一度構築する余力が、あの手に残っているかどうか。
ノクスが降りてきた。小さな黒い体が、私の肩に乗る。いつもより重い。声が低かった。
「使え。あれを」
腰の布袋に手を伸ばす。ドルクが打った封印具。
「三分。三分で仕留めなければ、終わりだ」
ヴィオラが骨の山を這い上がりながら、肩で息をしていた。
「三分あれば、一つだけ手があります」
目が合った。
焼けた指先を庇いながら、それでも目の奥は折れていない。
「封印具で再生を止めている間に、結界砲をもう一度。今度は傷口に直接。鱗ではなく、肉に届かせます」
「ヴィオラさんの結界は」
「あと一回が限界にございます」
静かに言い切った。
「その一回を、これに使います」
封印具を握る手が震えていた。掌の汗で、柄が滑る。握り直す。また滑る。
全力を尽くした。二人の最善のコンビネーションを全部出した。結界砲まで撃った。それでも、再生がある限り、倒せない。
三分。たった三分で、あの古竜を仕留める。
できなければ死ぬ。
骨塚に、もう二人分の白い骨が増えるだけだ。
ノクスが肩の上で、目を細めた。
「覚悟は」
封印具を握り直した。今度は、滑らなかった。
「ある」
封印具を高く掲げた。
「暁の門を叩け、黄昏の鎖を下ろせ、銀の楔を穿て。三重の封、此処に閉ず」
封印具の三重の溝が、外側から順に光った。白い光の脈が放射された。
光がヴェルガリオンの巨体を這い登った。鱗の隙間に入り込み、再生しかけていた肉を押し戻していく。
傷口の周囲で伸びかけていた新しい鱗が、動きを止めた。再生が、止まった。
三分。
ヴェルガリオンの前足が振り下ろされた。骨塚の地形が一撃で変わった。
人骨の層が爆砕し、岩が裂け、足場にしていた結界ごと吹き飛ばされた。背中から骨の斜面を滑り落ちて、尾てい骨に衝撃が走った。
立ち上がる前に二撃目が来る。ヴィオラが飛んだ。封印鎖を二本射出して、振り下ろされかけた前足を岩壁に縫い止める。
巨体のバランスが僅かに崩れた。その隙を見逃さなかった。
斜面を蹴って跳んだ。骨の破片が頬を切った。
左脇腹の傷口が目の前にある。剥がれた鱗の断面から赤黒い肉が覗いていて、封印具の光が再生を押さえつけている。
杖を突き立てて、詠唱した。声が掠れていた。唇が割れて血の味がした。それでも最後の一節まで唱え切った。
白い熱が傷口の奥に潜り込んで、肉を焼いた。ヴェルガリオンの咆哮が骨塚全体を揺らした。封印鎖が二本とも千切れて、ヴィオラが反動で骨の山の向こうへ飛ばされた。
杖が、砕けた。魔力を流し込みすぎた。ドルクが打った短い杖が根元から折れ、破片が手のひらを切って血が散った。
残った柄を握ったまま、振り払われて宙に放り出された。背中から骨の山に叩きつけられた。
肺の空気が全部抜けた。視界が白く明滅して、音が遠くなった。
ヴェルガリオンが身を起こした。傷口から黒い血が流れている。
腰の封印具を見た。三層の光のうち、赤の層が消えていた。黒の層も明滅している。
残っているのは銀の層だけ、それも、脈打つように薄れ始めている。
ヴィオラの姿が見えない。骨の山の向こうに飛ばされたまま、動いていない。
ノクスが降りてきた。子猫の小さな体が、散乱した骨の上をてくてくと歩いてくる。金色の目だけが大人のまま、こちらを見上げた。
前足で私の指を一度踏んだ。爪は出していない。大丈夫だ、の合図。
大丈夫じゃなかった。杖が折れた。ヴィオラが動けない。封印はあとわずかしか保たない。
薄く開いていたヴェルガリオンの目が、完全に見開かれた。
意識が戻っている。
骨塚の薄闇の中で、二つの金色の瞳が私を見下ろしていた。瞳孔が縦に裂けて、その奥に途方もない年月の怒りが渦巻いている。
口が開いた。
炎ではない声だった。
「虫けらが」
ヴェルガリオンの首がゆっくりと持ち上がった。眠りから半身を起こすだけで、骨塚の地形が変わった。太古の冒険者たちの骸が雪崩のように転がり、装備の残骸が金属音を立てて散らばっていく。
「鱗を剥がしたのか。この我の鱗を。虫けら風情が我の鱗を」
声が低くなった。骨塚の壁が共鳴して、細かい破片が天井から降ってくる。
「五千年前にも一匹、同じことをした小蝿がいた。あれ以来。我に傷をつけた者は、おらん」
体の奥で、何かが震えた。胸の底。背骨の裏側あたりで、記憶の断片が一つ浮かんだ。赤い空。黒い鱗。拳を叩きつけた感触。前世の誰かが、この竜と殴り合った記憶の残り香。
骨の山の向こうから、ヴィオラの声が飛んだ。口から血を吐きながら、半身を起こしていた。
「ヴェルガリオン殿。あなたの心臓を、いただきに参りました」
金色の目がヴィオラに向いた。一秒の沈黙の後。咆哮が轟いた。
声ではない。
激怒そのものだった。
骨塚の天蓋に亀裂が走った。
人骨の山が雪崩を起こして、立っていられなくなった。
「虫けらが虫けら風情がこの我に、何をくれと言った」
両翼が広がった。骨塚から土砂と人骨が舞い上がり、空が暗くなった。
ヴェルガリオンの口が開いた。炎じゃなかった。黒い奔流。影属性のブレスが口腔の奥から溢れ出した。
遠い昔に失われたはずの属性が、古竜の体内に残っていた。闇が液体のように空気を侵食して、骨塚の白い山肌を黒く染めていく。
「ヴィオラさんっ!」
叫んだ時にはもう遅かった。ヴィオラが結界を三層重ねた。
深紅の光壁が黒い奔流を受け止めて、内側から食い破られた。
一枚目が黒く染まり、二枚目に亀裂が走り、三枚目が砕けた。ヴィオラの体が吹き飛んだ。骨の山に背中から激突して、そのまま動かなくなった。
二射目が来る。こちらに。
影属性。焔でも、神官術でも、防げない。ドルクの杖はもう折れた。避ける間もなかった。
黒い壁が視界を埋めた。
ノクスが、私の前に飛び出した。
黒い奔流がノクスに向かって収束していった。小さな体が影を吸い込んでいる。毛が逆立ち、金色の目の瞳孔が一瞬だけ縦に裂けた。
ヴェルガリオンの目が見開かれた。ブレスが止まった。
「影を食うか。貴様。影の欠片か」
ノクスの体が震えていた。息が荒い。子猫の肺には重すぎる呼吸音が、骨の上に落ちていた。
「ただの、猫だ」
声が掠れていた。古竜の影波動を、あの小さな体で全部受け止めた。
ノクスの体が、縮んだ。
成猫から子猫になった時よりもさらに小さく、手のひらに乗るほどの体になっていた。影の波動を消化するのに全ての魔力を使い果たした。器が限界まで小さくなっている。
「にゃ」
声が出なかった。
口が開いて、音にならない空気だけが漏れた。
拾い上げた。両手で包んだ。軽かった。こんなに軽い。骨と毛皮しかない。金色の目だけが同じだった。大人の目が、子猫の顔についている。
「ノクス、ノクス……っ」
小さな前足が、私の指を一度だけ踏んだ。いつもと同じ合図だった。
涙がこぼれた。止められなかった。
ヴィオラさん、と呼んだ。
声にならなかった。
すぐ近くに、深紅の髪が見えた。うつ伏せのまま、動かない。
「ヴィオラさん」
手を伸ばした。肩を掴んで、仰向けに返した。目が閉じていた。口の端から血が垂れて、顎の線を伝って骨の粉塵に染みている。
胸が、動いていない。
息を呑んだ。指先で首筋に触れた。脈を探した。なかった。
「嘘」
もう一度、押さえ直した。人差し指と中指を、顎の下に滑り込ませた。何も触れない。鼓動がない。体温が、指先の下で消えていく。
「ヴィオラさん、ヴィオラさんっ」
揺すった。頬を叩いた。反応がない。
深紅の髪が骨の粉塵の上に広がって、動かなかった。
ノクスが子猫になって、ヴィオラさんが死んで、杖も折れて、封印も切れかけている。一人だ。この古竜の前に、私一人だけが残った。
ヴェルガリオンの金色の目が、こちらを見下ろしている。前足が持ち上がった。次の一撃が来る。
ああ、と思った。
ここで終わるんだ。
カイルの顔が浮かんだ。
トールの声が聞こえた気がした。
ミナの笑い声。
フィオレの静かな微笑み。
父の背中。
母の指先。
ノエル。
ノエル、ごめんね。
お姉ちゃま、帰れなかった。
目を閉じた。
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