第147話 再生
苦笑が漏れかけた瞬間、空気が変わった。ヴェルガリオンが首をもたげていた。百メートルを超える巨体の頭部が、ゆっくりと持ち上がる。口腔の奥で、黒い光が渦を巻いていた。
ブレス。
叫ぶ暇もなかった。黒い瘴気の奔流が口から放たれて、骨の山を舐め尽くした。
焔ではない。瘴気そのものが空間を侵食して、触れた骨が溶ける。岩肌が赤熱して、溶岩に変わっていく。
足場が消えた。ヴィオラが結界を三層重ねて、ブレスの進路を逸らす。
深紅の光の壁が黒い奔流に押されて歪み、軋み、限界まで撓んで、逸れた。
逸らした先の山肌が抉れた。岩盤ごと消し飛んで、新しい谷ができている。一撃で、地形が変わった。
足元の地面ごと抉れて、溶岩化した地面が赤い光を放ちながら下方に遠ざかっていく。杖に魔力を通して重力制御をかけた。体が一瞬無重力になり、落下の勢いを殺して谷の壁面に足を叩きつけた。
焦げた岩を蹴って横に跳ぶ。変わり続ける地形の中で、死角を探す。
ヴェルガリオンの首が右を向いている。
左脇腹は。今なら、視界の外。
谷底の溶岩を避けて、崩れ残った岩棚を三つ蹴り渡り、剥がれた鱗の傷口に杖を叩き込む。焔を注ぐ。二枚目が剥がれた。続けて三枚目。傷口が広がる。
でも、その程度だった。巨体に対して爪痕にもならない。
ノクスの声が上空から降ってきた。
「片翼を止めろ。あの体で飛ばれたら近づけない」
ヴィオラが即座に応じた。深紅の封印鎖が三本、地面から射出されてヴェルガリオンの左翼を貫く。翼膜を突き抜け、背後の岩壁に鎖の先端が食い込んで、固定された。
巨体がバランスを崩した。片翼を岩壁に縫い止められたまま、ヴェルガリオンが横倒しに山肌へ突っ込む。
骨と岩が一緒に崩れて、雪崩が起きた。白い粉塵と破砕音が世界を埋め尽くす。
その隙に、腹の下へ潜り込む。巨体の影が空を覆って、光が消えた。見上げると、剥がれた鱗の傷口が頭上にある。灰色の皮膚の奥で、かすかに脈動する何かが透けている。
杖を突き立てた。柄まで、一気に。
「灰燼に帰せ」
焔が炸裂した。杖が導管になって、体内の魔力回路を全て通り抜けた白い光の束が先端から噴き出した。傷口の奥に焔が食い込んでいく手応えがあった。
ヴェルガリオンが咆哮した。音ではなかった。空気そのものが固体になって叩きつけられたような衝撃。
鼓膜が潰れるかと思った。足の裏から頭のてっぺんまで振動が走り抜けて、内臓が揺さぶられる。
封印鎖が三本とも千切れた。ヴィオラの悲鳴が聞こえた。
鎖の反動で、小さな体が吹き飛ばされていく。深紅の髪が宙に散って、骨の山のどこかに落下する音がした。
私も振り払われた。巨大な前足が地面を叩いた反動で岩盤ごと弾き飛ばされ、背中から骨の山に突っ込んだ。古い鎧の破片が脇腹に刺さる痛みが、一瞬遅れて追いかけてきた。
息が詰まる。肺の中の空気が全部出て、吸えない。骨の粉塵が喉に張りつく。
体を起こすと、視界が揺れている。ヴィオラの結界砲。あれをもう一度やるしかない。
「ヴィオラさん、結界を筒にして」
声が掠れた。
粉塵を吸い込んだ喉が灼けるように痛い。骨の山の向こうから、ヴィオラが這い上がってきた。左肩を押さえている。深紅の髪に白い骨の粉が混じっていた。
「承知」
それだけ言って、両手を前に突き出した。深紅の光が空中に筒を描く。円筒形の結界が、私とヴェルガリオンの間に構築されていく。
砲身。焔を収束させて、一点に集中させるための導管。
結界の内側に杖を差し込んだ。息が途切れる。喉から血の味がする。それでも声を絞った。
「星よりも、古き、もの、灰よりも、白き、もの」
途切れ途切れの詠唱に、残っている魔力の全部を乗せた。白い焔が結界の筒の中で加速し、収束し、圧縮され、砲身の先端から光の柱が射出された。
ヴェルガリオンの左脇腹。剥がれた三枚分の傷口を、直撃する。
焔が皮膚を貫いた。灰色の表皮の下の、赤黒い肉に、初めて到達した手応え。焔が肉を灼く匂いが、瘴気の中にも混じって漂ってくる。
ヴェルガリオンが、初めて、苦悶の声を上げた。山全体を震わせる低い唸り。痛みの声だ。長い眠りの中で、初めて痛みを与えられた竜の声。
やった――と思いかけた。
ヴェルガリオンの残った片翼が広がった。縫い止められていた左翼は千切れた封印鎖の残骸ごと垂れ下がっている。だが右翼だけでも、広げれば骨塚の半分を覆う大きさがあった。
片翼が空気を叩いた。一度。それだけで巨体が浮いた。
低い。地面すれすれの、力ない飛翔。それでも百メートルの体が宙に上がった。
口腔の奥で、黒い光が再び渦を巻いている。二度目のブレス。今度は真下に向けて放たれた。
結界砲で傷つけられた怒りが、黒い瘴気の柱になって骨塚に叩きつけられる。着弾点から衝撃波が広がって、骨と岩と溶岩が混ざり合った破壊の波が一帯を呑み込んだ。
ヴィオラの結界が光った。咄嗟に展開された深紅の膜が、私たち二人を別々に覆う。衝撃波が結界を殴りつけ、ヴィオラの結界が悲鳴のような音を立てた。
割れなかった。だが衝撃ごと打ち上げられた。体が浮いた。百メートル以上、一瞬で空に放り出された。
結界の深紅の膜が周囲で割れて、破片が星のように散っていく。風が耳元で悲鳴を上げている。
眼下に骨塚の全景が見えた。白い山が黒い瘴気に半分呑まれて、ヴェルガリオンの巨体がその中心で蠢いている。
落下が始まった。
杖に残りの魔力を通して減速をかけた。体が一瞬軽くなって、そこから地面が急速に迫ってくる。
制御しきれない。左肩から骨の斜面に叩きつけられた。関節が外れたかと思うほどの衝撃が腕を走り抜けた。口の中に血の味が広がる。
ヴィオラの姿を探す。百メートル以上離れた岩陰で、深紅の髪が見えた。
あの高さから落ちて、結界で衝撃を殺したらしいが、立ち上がれていない。膝をついたまま荒い息を繰り返している。
ヴェルガリオンが片翼を畳んで、骨塚に降りた。着地の衝撃で地面が割れる。
傷口を見る。結界砲が抉った傷は、確かに深かった。黒い血が流れ出して、岩肌を濡らしている。
でも、傷口の周囲で、鱗が動いていた。剥がれたはずの鱗の隣から、新しい鱗が押し出されてきている。黒い表面が傷口を覆うように伸びて、抉れた肉の上に蓋をしていく。
再生している。
傷を負った端から、体が自分で修復している。
再生するだろうとは思っていた。あれほどの古竜が、鱗を剥がされた程度で死ぬはずがない。だから封印具を用意してきた。
だが、この速さは想定していなかった。
結界砲が抉った傷が、見ている間に塞がろうとしている。
「こんなに速いなんて」
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