第146話 骨の山
四日目の昼過ぎ、山脈が見えた。遠目には普通の山並みだった。空の青に白い稜線が走り、鳥が山際を横切っている。
近づくにつれて、グレヴァの言葉が実感に変わった。聞いていたのと、見るのとでは違った。
骨が山を覆っていた。数千。あるいは数万人分が層を成して、山肌を白く染めている。
肋骨と大腿骨が折り重なり、頭蓋骨が苔むした岩の隙間から半分だけ覗いている。古い鎧の破片が骨の間に挟まり、錆びた剣の柄が斜面から突き出していた。
冒険者の帽子の金具。盾の縁の紋章。聖印の欠片。
この竜はずっと人を喰い続けていた。
足元の草が途切れた。骨の層の縁に立っている。
風が吹くたびに、乾いた骨がかすかに鳴った。ヴィオラの足が止まった。息を整えている。長耳の先が、微かに下を向いていた。
ノクスの耳が完全に伏せられた。毛が逆立ちかけて、すぐに戻った。金色の目だけが、山の中央を凝視している。
山の中央に巨大な鼻先が突き出ていた。
黒い鱗。一枚一枚が人の背丈ほどある。鼻先だけで馬車が三台並ぶ大きさだった。
閉じた口の隙間から、牙の先端が覗いている。古い苔が鱗の継ぎ目に根を張り、蔦が角の付け根を這い上がっていた。
骨塚のヴェルガリオン。
眠っている。
五千年前からこの山に棲みついた古竜が、骨の山の中心で、山そのものになっていた。
周辺の岩肌に、文字が刻まれていた。爪痕で。等間隔に、深く。
ヴィオラが岩壁に近づいて、指先で文字をなぞった。古代文字だった。レガリア期の、さらに前の言語体系。
「我、此処に眠る」
ヴィオラの声が、岩壁に吸い込まれるように響いた。
「我を起こす者、世界の終わりを連れて来たれ」
風が止んだ。
骨の山が鳴るのも止んだ。
空気が重くなった。
山全体が、一つの生き物の呼吸のように、ゆっくりと膨らんで、縮んでいる。
ノクスが私の肩から降りて、骨の縁に立った。
小さな体が、古竜の鼻先を見上げている。
尾が地面に垂れたまま動かなかった。
「これ、起こしたら本気で大陸が滅びそうだな」
低い声だった。
黒い鱗の一枚一枚が、呼吸に合わせて微かに持ち上がっている。鱗の隙間から、古い魔力が霧のように漏れていた。紫ではない。もっと深い、黒に近い色。
途方もない年月の魔力が、この体の中で凝縮されている。グレヴァの言葉が頭の中で反響した。
――生きている山。
鼻先の横に、古い鱗が一枚だけ剥がれた痕があった。傷口は黒く焼けていて、今も再生していなかった。
ノクスの目がその傷に止まった。
「鼻先の横に古傷がある。五千年前にお前がつけた傷だろう」
前世の私が、一枚だけ剥がした一枚。
封印具に腰の布袋の上から触れた。
三分。
三分で、終わらせなければならない。
ヴィオラが岩壁から手を離して、振り返った。深紅の髪が風に乗って横に流れた。
「寝てる間に、終わらせましょう」
骨塚の上を、鳥が一羽も飛んでいなかった。
杖を構えた。ドルクが打った、新しい杖。左手に握った柄が、掌の汗で滑ったが握り直す。
ヴィオラが隣で両手を組み、古代神官術の術式を編み始めていた。指先の周囲に、淡い深紅の光が糸のように走っている。
作戦通りにいく。
目を合わせただけで、ヴィオラが頷いた。
ノクスが骨塚の上空を、黒い弾丸のように駆け抜けていく。小さな体が旋回して、私の肩の近くまで降りてきた。
「鱗の隙間が左脇腹に三箇所。狙え」
考えている暇はなかった。
息を吸った。腹の底から声を出して、詠唱した。
杖を振り下ろす。
白い焔の柱が骨塚を突き上げた。太い。
同じ魔力を通しただけなのに、焔が地面ごと抉っていた。螺旋構造が魔力を絞り上げて、出口で一気に弾ける。
この杖は、いい。
同時にヴィオラの深紅の封印鎖が三本、地面から射出されてヴェルガリオンの前足に巻きつく。二人同時の一撃。
焔が黒い鱗を舐め上げて、はじかれた。
焦げ跡だけが残っている。表皮を削ることすらできなかった。
封印鎖のほうは、一瞬だけ前足を縛ったが、鉄よりも硬い鱗が鎖を押し広げて、金属がきしむ音を立てている。ヴェルガリオンの瞼が、薄く持ち上がった。
金色の光が、一筋だけ、巨大な眼窩の奥で揺れた。眠っている。まだ眠っている。薄目を開けただけで、意識はない。
前足が動いた。反射だ。蝿を払うような、意識のない動作。
ただ、その前足一本が建物ほどの大きさで、振り下ろされた先の骨の山が爆散した。衝撃波が地面を走り、足場にしていた岩盤が割れて崩れ落ちる。数千人分の人骨が雪崩のように滑り、白い粉塵が視界を塞いだ。
「ヴィオラさん!」
「承知しております」
粉塵の奥で、深紅の光が閃いた。
ヴィオラが散らばった人骨を結界で瞬時に固めている。砕けた骨と骨を結界の膜が繋ぎ合わせて、空中に足場を編み上げていく。即席の階段が、白い骨の破片を踏み石にして、ヴェルガリオンの胴体へ向かって斜めに伸びた。
駆け上がる。
骨の足場が踏むたびに軋んだ。
結界で固めてあるだけの仮組み。長くは保たない。
走りながら、詠唱を続けていた。左脇腹。ノクスが言った三箇所の隙間。
黒い鱗の一枚一枚が馬車の屋根ほどの面積で、重なり合った縁にわずかな段差がある。そこだけ、鱗と鱗の間に指が入るほどの隙間が走っていた。
杖の先端を隙間に突き込んで、最後の一節を叩きつけた。焔が鱗の裏側に入り込み、表面からは見えない内側を灼いた。
めきり、と音がした。鱗の一枚が、付け根から剥がれ落ちた。人の背丈ほどある黒い鱗が宙を回転しながら骨の山に落下して、地面が揺れた。
たった一枚。
剥がれた跡には、灰色の薄い皮膚が覗いている。次の鱗がその下にもう一層重なっていて、本当の肉までは、まだ遠い。
「あれで一枚」
骨の足場の下から、ヴィオラの声が上がった。
「あと、数万枚にございます」
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