第144話 「ヴィルヌア街道の赤髪幽霊 実録・消える女の怪」
ヴィルヌア南門を出た朝は、風がなかった。私が手綱を握り、シャルートの馬車がサフィアル南方内陸へ向かう街道を進んでいく。
石畳が途切れて土に変わり、港町ハイレドンで水と干し果物を買い足した。露店が並ぶ通りを抜ける時、ヴィオラの足が止まった。
刷りたての冊子が山積みになっていた。インクの匂いがまだ残っている。
その一番上の表紙に、赤い髪の女の絵が描かれている。目が光っている。背景に街道。題字は『ヴィルヌア街道の赤髪幽霊 実録・消える女の怪』。
ヴィオラが冊子を手に取った。表紙を見つめて、裏返して、また表に戻した。
「実録」
「トールが広めたやつだ」
ノクスが肩の上で呟いた。
ヴィオラが冊子を丁寧に棚に戻した。表情は崩れない。ただ長耳の先だけが、ほんの少し赤くなっていた。
港町を抜けて山脈帯へ。街道が尽きた場所でシャルートを繋ぎ、そこからは徒歩だった。
道が細くなるにつれて、人の気配が薄れていった。街道沿いの宿が消え、木々が背を伸ばし、空が枝葉に閉ざされていく。
ヴィオラは歩きながら語った。
「五千年前、あの大陸は、今とは全く違う姿でした」
声は低く、歩く速度に合わせて言葉が刻まれていく。足元の落ち葉を踏む音が、句読点のように挟まった。
「人と神獣と古竜が、同じ空の下にいました。街道の脇を竜が歩き、市場で神獣が荷を運び、人間の子供が竜の背中で眠っていた」
木漏れ日がヴィオラの深紅の髪を細く切った。長耳の先が揺れている。
「九使徒は、その世界の管理人でした。一番目が魔法の体系を創り、二番目が、つまり私が、記録を残した」
ヴィオラが足を止めて、私を見た。
何か言いかけて、口を閉じた。五千年前のことを話そうとして、やめたのだと分かった。
――知っている。
竜の背中の温度。市場の喧騒。神獣の鼻息が首筋にかかる感触。断片が、夢の底から浮かび上がるように、ちらちらと見えた。思い出そうとすると消える。でも、確かにそこにあった。
「私も、少しだけ、覚えています」
ヴィオラの足が止まった。振り返った目が、揺れていた。
「いつか、全部思い出せたら、一緒に答え合わせしましょう」
ヴィオラが微笑んだ。目の奥が、少し潤んでいた。
「ええ。楽しみにしています」
足元の石を踏む音だけが、しばらく続いた。ノクスが肩の上で前足を組み直した。金色の目は閉じている。だが耳は動いていた。
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