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第143話 「あの山は生きている」

 ドルクの工房を出て、ギルドへ向かった。ヴィルヌア中層のギルド支部。レガリア期の古い石柱を壁に取り込んだ建物の、二階の応接間に通された。普段は使われない部屋だ。


 窓から差し込む光が、埃の粒を細く照らしている。


 扉が勢いよく開いた。白髪交じりの壮年、ではなく、すでに老年に差しかかった男が飛び込んできた。


 六十代後半。引退した元S級冒険者。頬が削げて、額に深い皺が刻まれている。だが、目だけは若い剣士のままだった。


 ギルドマスター、グレヴァ。



「ノ、ノクス殿、本当にヴェルガリオンですか」



 額に汗が浮いていた。手元の申請書を握る指が、微かに震えている。


 肩の上でノクスがあくびを一つ。金色の目を細めて、窓の光の中でゆっくり瞬きした。


 私は頷いた。


 グレヴァが椅子に座り直した。申請書を机に置く手が、まだ定まらない。


 数秒の間に、表情が二度変わった。ギルドマスターの顔から、元S級冒険者の顔へ。



「骨塚、と呼ばれている理由をご存知ですか」



「名前だけは」



 嘘をついた。五千年前、一度だけ戦っている。あの頃は、まだ骨の山ではなかったけれど。



「あの山の南斜面は、犠牲者の骨で白いんです」



 グレヴァの声が変わった。報告口調ではない。見てきた者の声だった。


 グレヴァが机の上の古い地図を広げた。サフィアル南方内陸の山脈帯。赤い印の周囲に、×印が十以上。



「×印一つが、全滅した討伐隊一組です。三十年前の合同討伐軍が最後だった。S級四組、兵員二百。一人も戻らなかった。以来、天災扱いです」



 椅子の背もたれが軋んだ。


 グレヴァが体を前に傾けた。



「しかも、あいつは五年に一度くらい、飛ぶんです」



 声が低くなった。



「骨塚から空に上がって、翼で空を覆う。影の下の村を丸ごと喰らって、骨だけ山に吐き出す。食い終わったら戻って、また眠る。あの山が白いのは、そういうことです」



 グレヴァが、一度だけ目を伏せた。



「若い頃、偵察隊に入ったことがある。骨塚の縁まで行った。山の匂いを嗅いだだけで馬が動かなくなった。俺の剣が鞘の中で震えていた」



 老剣士の目が、窓の光の中で乾いていた。



「山だと思っていたものが、竜の体だった。尾根が背中で、稜線が翼だった。あの山は、丸ごと一匹の生き物だ」



 沈黙が応接間を満たした。埃の粒が、光の筋の中でゆっくり回っている。


 ヴィオラが一歩前に出た。



「二人で行きます」



 グレヴァの目が見開かれた。



「神聖教皇国の神官として、骨塚周辺の浄化が長年の懸案でございました。あれは一国の問題ではなく、大陸全土を脅かす災いの種。教皇国も、サフィアル連合も、五十年に一度、合同で対策会議を開いてまいりました」



 ヴィオラの声は静かで、一語ずつに重さがあった。長耳の先が微かに揺れている。


 グレヴァが固まった。机の上の申請書を見下ろし、ノクスを見上げ、私とヴィオラを交互に見た。


 やがて、職務に戻った。印章を取り出し、申請書の右下に朱い判を押した。



「ご武運を」



 声がかすれていた。


 ノクスの尾が一度揺れた。応接間を出た。階段を降りて、ギルドの正面口に向かう。



「あの方、本気で心配してらっしゃいましたね」



 ヴィオラが小声で言った。



「うん。それだけの相手ってこと」



 ノクスが肩の上で身じろぎした。金色の目が半分だけ開いて、ギルドの天井の石柱を見上げていた。


 何を考えているのか、読めなかった。


お読みいただき、ありがとうございました。

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