第141話 「早く帰ってきてください」
フィオレは朝の光が廊下に差し込む前に起きていた。リーラ様が南へ発ってから十日、カイル様とトール様が北へ向かってから同じだけ経っている。
別邸の台所で湯を沸かし、雑巾を絞り、玄関の石畳を拭いた。誰も出入りしない玄関だった。
ガーレン様は街道のどこかを歩いている。ルーシェ様は書斎に籠もったまま、夜明け前から羽ペンの音だけを廊下に響かせている。
ミナ様は下層へ降りていた。
拭き終わった石畳に朝日が斜めに差した。
洗濯物を庭の紐に干した。カイル様の替えのシャツが一枚、畳んだまま棚に残っている。
持っていかなかったのか、忘れたのか。
ルーシェ様の研究着は、袖口のインク染みが三度洗っても薄く残り、フィオレは四度目を諦めてそのまま干した。
風が白い布を膨らませた。兎耳が同じ風を横から受けて、ぴくりと倒れた。
薬草園に回った。リーラ様のお母様、エレイン様が月に一度届けてくださる苗の手入れは、フィオレの仕事だった。
ヒソップの穂がいくつか開きかけている。指先で茎を支えて、枯れた葉を一枚ずつ摘んだ。
土の匂いが爪の間に入り込んで、洗ってもしばらく残る種類の匂いだった。
昼過ぎ、門の郵便受けに手紙が一通入っていた。
宛名は「フィオレへ」。
封蝋はヴェイン家の蛇杖。
筆跡は丸くて大きくて、ところどころ文字が行の端から転がり落ちそうになっている。
ノエル様だ。正確には、お母様が口述を書き取って、ノエル様が自分の名前だけを書いたのだろう。
封筒の裏の「ノエル」の「ル」が鏡文字になっていた。
中身は短かった。
>フィオレ、リーラのおうちまもっててくれてありがとう。
>フィオレのおみみ、さわりたいです。
>わたしは元気です。
>歌をおぼえました。
お母様の丁寧な字の間に、ノエル様の丸い字が三箇所だけ混じっていた。
「ありがとう」と「おみみ」と、最後の「ノエル」。
便箋の下の余白に、絵が描いてあった。
長い耳が二本生えた丸い顔。
隣にもっと小さな丸い顔。
たぶん、フィオレとノエル様だった。
食堂のテーブルに便箋を広げて、ペンを取った。
少し迷った。
兎耳が左に傾いたまま、しばらく戻らなかった。
> ノエル様へ
> お手紙と絵、ありがとうございます。
> おうちは毎日お掃除しています。
> 大丈夫です。
> おみみは、いつでもさわっていいです。
> 帰ってきたら、歌を聞かせてくださいね。
> フィオレより
ペンを置いてインクが乾くのを待つあいだ、窓の外を眺めた。
庭の向こうに街道が細く伸びている。
シャルートの影も、荷馬車の轍の音もなかった。
便箋を折って、封をした。夕方、ルーシェ様に紅茶を運んだ。
書斎の扉を三度叩いて、返事を待ってから開けた。机の上に押収品の欠片と古文書の写しが山になっていて、ルーシェ様は髪を耳にかけ直す暇もなく羽ペンを走らせていた。
「先生、根詰めすぎですよ。少しお休みになってください」
「ありがとう、フィオレ。あと少しで、一つ繋がりそうなの」
紅茶の杯を机の端。書類の山に触れない位置を見極めて置いた。ルーシェ様の視線がペンの先から一瞬だけ外れて、机の向かい側の空いた椅子に向かった。
ガーレン様がいつも腰を下ろす、肘掛けの革が少し擦れた椅子だった。視線はすぐにペンの先へ戻った。
「何かございましたら、お呼びください」
「ええ。ありがとう」
二度目の礼が、一度目より小さかった。扉を静かに閉めた。
日が傾くと、別邸の灯りを一つずつ消していった。
玄関、廊下、階段の踊り場、客間、洗面所。
灯心を指先で摘まむたびに、影が一段ずつ濃くなった。
食堂の灯りだけを最後に残して、椅子を一つ引いて座り、紅茶を一杯だけ淹れた。湯気が杯の縁から立ちのぼって、食堂の高い天井に届く前に見えなくなった。
テーブルには椅子が並んでいる。
リーラ様、カイル様、トール様、ミナ様、ガーレン様、ヴィオラ様。
書斎のルーシェ様の席。
ノクス様の、小さなクッション付きの椅子。
そしてフィオレ自身の椅子。今、座っているこの一脚だけが、引かれていた。
紅茶を一口含んだ。
舌の上でカモミールの香りが広がって、今朝摘んだ花の匂いと重なった。
窓の外に夕焼けの最後の一筋が、街道の上に細く残っていた。
兎耳が、その光の中でゆっくりと垂れた。重力に従うように、何の力も入れずに。
「皆さん、早く帰ってきてください」
声は食堂の石壁に吸い込まれて、どこにも届かなかった。
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