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第140話 黒い帽子の女

 黒い外套の男。あの影が、この街のどこから来て、どこに消えたか。それを知ってる奴が下層にいるかもしれない。


 路地裏に足を踏み入れた時、壁にもたれている人影に気がついた。黒い帽子。つばが広くて、顔の半分が隠れている。煙草の先端だけが暗がりの中で赤く灯っていた。



 帽子のつばの下から、片方だけ赤い瞳が覗いていた。



「お嬢さん、こんなとこで、何探してんの」



 声に輪郭がなかった。路地裏の空気に溶けるみたいに軽くて、あたしに敵意を向けている声じゃなかった。でも、味方の声でもなかった。


 右手が腰の短剣に伸びて、指が柄の革を握り締めた。



「誰」



「怖い顔。落ち着きなよ。あたい、戦いに来てはないのさ」



 女が煙草の灰を指で弾いた。灰が石畳に散って、薄く広がった。動作が緩かった。急ぐ気配がどこにもない。



「名乗っとくよ。ロウェナ。元・結社にいた。今はぶらぶらしてるのさ」



 指が柄から離れなかった。


 ロウェナが帽子のつばを指先で押し上げた。赤い瞳が両方とも見えた。


 若い顔。目の下に薄い隈。口元だけで笑う癖のある顔だった。真っ赤なルージュ。目は笑っていない。



「ね、お嬢さん。お宅の姐さん、今、留守でしょう」



 心臓が一度、強く打った。



「南の方、行ってんでしょ。骨が、いっぱい転がってる場所さ」



 背筋が冷えた。あたしですら詳しくは聞いていない。リーラの目つきと、ヴィオラの出立の荷で、薄々察しているだけだ。それを、この女は知っている。



「伝言、頼まれてちゃくれないかい? 戻ってきたら、伝えてほしいだけさ」


「あんたの伝言を、なんで、あたしが」


「気が向いたら、でいいさ。あたい、答え、もらいに来ない。お嬢さんの匙加減さね」



 煙草を一度吸って、煙を細く吐いた。紫がかった靄が路地の壁を這って、上に消えた。



「伝言、二つ」



 指を二本立てた。



「一つ。結社の偉い人が、動き出した。あたいの古巣の話だから、間違いないのさ」



「マヌエルが」



「マヌエル?」



 ロウェナが目を細めた。馬鹿にされたのかと思ったけど、なんか違う顔だった。



「あれは、お使い番さ」



 あたしの指が、柄の上で白くなった。



「本当に動かしてる男は、別さ。五十年、誰にもバレずに糸引いてた爺さんがいるのさ。最近、表に出てきたらしいのさ」



「五十年」



「あたいも、顔は見たことないのさ。でも、いるのは、確かさ」



 ロウェナが煙草を唇から離して、先端の火種を見つめた。風で赤い点が揺れて、灰が一片だけ零れた。



「伝言は、以上さ。気が向いたら、伝えて。気が向かなかったら、忘れていいさ」



 煙草を石畳に落として、踵で踏み消した。じゅっ、と小さな音がして、それきりだった。



「どっちでも、あたいは、困らないのさ」



 踵を返して、路地の奥に歩き出した。背中が一度も揺れない。足音も残さない歩き方だった。


 ふっと立ち止まった。肩越しに、あたしを見た。帽子のつばの下から、赤い片目だけ。



「ね、お嬢さん」



「何」



「あんたの姐さんに会えたら、よろしく言っといて。あたいも、いつか、会いに行く、って」


「あんた、姐さんに、何か、用事があるの?」



 また口だけで笑った。



「さあ」



 路地の角を曲がって、消えた。足音も残らなかった。


 踏み消された煙草の跡だけが、石畳の上に小さく黒く残っていた。


 しばらく動けなかった。短剣の柄を掴んだ手がようやく離れると、指の跡が革に残っていた。



「何、あの女」



 声に出した。


 誰にも聞こえない路地裏で。


 胡散臭い。断定しないし、笑うタイミングがずれてる。煙草の消し方だけが妙に丁寧だった。



 でも、あの爺さんの話は、嘘じゃない気がする。



 あの目の奥には、嘘をつく時に浮かぶ光がなかった。あたしは下層で育った。嘘つきの目なら、十二年分見てきた。あの女の目は、嘘をつく人間の目じゃなかった。


 隠し事はある、けれど伝言そのものに嘘はなかった。


 隠すことと嘘をつくことは違う。下層で覚えた、数少ない確かな区別だった。



「姐さんに、伝える」



「判断は、姐さんがやる」



 下層の出口に向かって足を踏み出した。


 路地裏の朝日が石畳を斜めに切っていた。


お読みいただき、ありがとうございました。

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