第137話 帰る場所
ミナはヴィルヌア下層の修道院の門を、何ヶ月ぶりかにくぐった。朽ちかけた木の扉。庭の隅の井戸の縁で丸くなっている痩せた犬。煮炊きのスープが染みついた石壁の匂い。全部、変わっていなかった。
「ただいま」
肩の力が抜けた。
ここではあたしは下層のミナだ。
それだけでよかった。
礼拝堂の奥から、木の杖の音がした。とん、とん、と規則的に石畳を叩きながら、灰色の髪を後ろにまとめた老婆がゆっくり姿を見せた。
修道服の袖をたくし上げて、指先に小麦粉がついている。パンを捏ねていたらしい。腰の曲がり方も、杖の傾きも、前と変わらなかった。
「ミナかい」
「うん。婆ちゃん、元気そう」
ガナ婆があたしの顔を、しばらく見ていた。杖をついた手が止まって、額から顎まで一度視線を落とした。小麦粉のついた指で顎を撫でて、ふうん、と鼻を鳴らした。
「あんた、変わったね」
「そう?」
「目が、女になってる」
耳まで赤くなった。
「何それ」
「相手は誰だい」
礼拝堂には誰もいなかった。声を落としたつもりが、がらんとした天井の高い空間に吸い上げられて、思った以上にはっきり響いた。
「鍛冶屋の、トールっていう」
「ドルクのとこの、ハーフドワーフの息子か。骨太の良い男だね」
「婆ちゃん、なんでみんな知ってるの」
「下層は狭い」
二人でちょっと笑った。ガナ婆の笑い方は昔と同じだった。目尻の皺が深くなって、小さく息を漏らすだけの静かな笑い方。
「あんたが幸せそうだから、それでいい」
杖を突き直して、ガナ婆が礼拝堂の奥に消えていった。小麦粉のついた指が最後に見えて、暗がりに溶けた。
足音がした。小さな足音が、いくつも、いっぺんに。礼拝堂の裏口から子供達がぞろぞろ出てきた。寝癖のまま、裸足のまま、朝食の前のまま。
一番背の高い女の子が、目を見開いて、走ってきた。
「ミナねえっ!」
リラだった。十三歳。昔から少し変わった子で、見えないものが見えると言っては年上の子にからかわれていた。
あたしが最後に見た時よりも背が伸びて、頬の丸さが少しだけ削れている。でも目は変わらない。あたしを見つけると、ぱっと顔が明るくなる。
飛びついてきた。あたしの胸に頭を押しつけて、両腕を背中に回して、ぎゅうっと締めた。細い腕なのに力が強かった。
「ミナねえ、ミナねえっ、ねえ、本当に、本物だよね? 幻じゃないよね?」
「本物だよ。馬鹿、強く抱きすぎ」
「もっと帰ってきてよ、ねえ、たまにでいいから」
頭を撫でた。硬い髪だった。あたしと同じ、下層の水で洗った髪。
「うん。ごめんね」
他の小さい子達が、わらわら集まってきた。五歳の男の子があたしの膝のあたりにしがみついて、顔を上げた。鼻の下に何かついている。朝食のスープだ。
「みなねえちゃん、おみやげは?」
吹き出した。
「あんた、相変わらず正直ね」
袋から、街で買ってきた飴を出した。一人ずつ手に乗せていくと、小さな掌が次々に開いて、包み紙が朝日を受けてきらきら光った。歓声が礼拝堂の梁を震わせた。
子供達がはしゃいでいる隙に、リラがあたしの袖を引いた。庭の隅の井戸の縁に並んで腰を下ろした。
さっきの犬が足元で寝直していたのを、リラが足で軽く押しのけた。犬は一度だけ耳を動かして、三歩先に移動してまた丸くなった。
「ミナねえ、聞いてほしいことがあるの」
「ん?」
リラの声が、少しだけ低くなった。
「あたし、ミレナ姉ちゃんのお墓に、毎週、お花、持っていってる」
動きが止まった。ミレナ。結社の供物にされた、あたしの大事な妹分。名前を聞くだけで、胸の底に重い石が一つ沈む感覚がある。何年経っても変わらない。
「そう」
「ミレナ姉ちゃん、ミナねえに伝えてほしいって、夢に出てくるの」
リラが膝の上で指を組んだ。十三歳の、まだ小さな指だった。
「仇は、もう、いいよ、って」
井戸の縁の石が、手のひらの下で冷たかった。リラの目が、まっすぐこちらを見ていた。子供の目じゃなかった。
「ミナねえ、笑っていいんだよ」
視界が歪んだ。井戸の縁を握り直した。石の角が手のひらに食い込んで、その痛みだけが泣くのを止めてくれていた。
「あんた、十三のくせに、年寄り臭いこと言うわね」
「ミレナ姉ちゃんが言ってたの。ミナねえが泣いてたら、笑っていいよって言ってあげてって」
リラが笑った。
えくぼの出方がミレナと重なって、あたしの呼吸が一瞬だけ詰まった。リラを強く抱きしめた。
細い肩が腕の中に収まった。リラの髪が顎の下をくすぐって、シャボンの匂いがかすかにした。修道院の安い石鹸の匂いだった。
「ミナねえ、結婚するの?」
「あ、相手と、相談中」
「結婚式、呼んでね」
「うん」
声が詰まった。
「絶対、呼ぶから」
リラの腕がぎゅっと締まって、すぐに緩んだ。
離れた後、リラの顔が変わった。えくぼが消えて、十三歳にしては硬い目になった。
「ミナねえ、もう一つ」
「ん?」
「最近、変な男が来る」
犬が足元で耳を動かした。リラが声を落とした。
「黒い外套着た男。蛇の紋章が襟についてた。子供達に、街まで荷物を運ぶだけでいいって、銅貨を見せて」
背筋が冷えた。
「ダールとケヴィンが二回行った。あたしは断った。ミナねえが前に言ってたから。知らない大人の頼みは聞くなって」
ダールは十一歳。ケヴィンは十歳。二人とも、走るのだけは速い子供だった。結社の使い走りにはちょうどいい年齢だ。
「いつから」
「先月くらい。最初は飴くれただけ。次から荷物。銅貨三枚」
銅貨三枚。修道院の子供にとっては大金だ。
「ダールに、もう行くなって言った?」
「言った。でもダールは聞かない。ケヴィンはダールについていくから」
リラが膝を抱え直した。爪の先が自分のすねに食い込んでいた。
「ミナねえ、あいつら、何の人?」
答えを知っている目だった。下層で育った子は、それが何を意味するか分かっている。分かった上で、あたしの口から聞きたがっている。
「関わったら、終わりの人達だよ」
リラが頷いた。
小さく、一度だけ。
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