第133話 ただ、隣にいたい
焔が揺れて、二人の影が岩壁に伸びた。
「話を、リーラに戻す」
トールが姿勢を正した。
「リーラの名前は、もちろん知っていた。ヴェイン侯爵家の長女。社交界では『百年に一人の美姫』と謳われた令嬢だ」
焔の中に、銀の髪と紫の瞳が浮かんだ。
「そして、ラヴェルン侯爵家のシャルロットが『世界一の完璧な令嬢』と呼ばれていた。双剣を振るう前の、社交界の白薔薇の頃の話だ。リーラとシャロは、社交界の双璧として並び称されていた」
「うすっ、シャロさんが社交界の白薔薇って絵が、想像できないっす」
口の端が動いた。笑みではない。もっと小さな何か。
「今は信じられんだろう。あの女が、扇子を持って微笑んでいた頃があったんだ」
トールが首を傾げた。眉が寄って、口が半開きになっている。声を少し落とした。
「それと、お前にだけ言っておくが」
「うすっ?」
「俺は、シャロと、婚約していた」
「マジっすか!?」
声が山に反響した。夜の鳥が一羽、飛び立った。
「十二の時に決まった、政略婚約だ。王家とラヴェルン家の慣例の縁組だ。互いに恋愛感情は、なかった」
焚き火を見たまま淡々と語った。声に感傷はない。済んだ話をする時の口調だった。
「破棄したのは、シャロの方からだ。十四の時、『婚約、破棄してちょうだい。好きな人ができたの』と、はっきり言ってきた。俺は受けた。あいつが自分で選んだことだ。止める権利は、俺にはなかった」
「うすっ」
「だから、俺とあいつは、今は、本当に、ただの仲間だ。昔の話は、互いにしない。それが大人の礼儀だ」
トールの口が開きかけて、閉じた。重い情報だった。処理に時間がかかっている。唇を噛んで、顎を引いて、もう一度顔を上げた。
「うすっ。すごい重い話っす」
「お前、これ、ミナにも、リーラにも、絶対、言うな」
「うすっ。墓まで、二つ持っていきます」
口の端がわずかに緩んだ。
「お前、墓に何個話を、詰める気だ」
「うすっ。俺の墓は、広いっす」
焚き火の前で、ふっと、二人の吐息が同時に漏れた。笑いではない。もっと手前の、力が抜ける音だった。
「リーラ本人は社交界をほとんど嫌っていて、年に数回しか姿を見せない。だから余計に、見た者の話が一人歩きする。『見た者は皆、その夜、夢に出ると囁き合った』と」
「うすっ、リーラさん、そんなに」
「その『リーラ・ヴェイン』が、俺の中の像だった。銀の絹みたいな髪と、紫水晶の瞳と、雪みたいに白い肌の。美しい肖像画のような、生身の印象の薄い令嬢。それだけだった」
焔が揺れた。薪の芯が赤く脈打っている。
「だが、目の前にいたリーラは、違った」
カイルの声が、一段低くなった。
「医者見習いとして、堂々としていた。魔獣が出ても動じないし、治療の手に迷いがなかった。見た目の何十倍も、肝が据わっている」
焚き火を見つめたまま、言葉を選んでいた。
「俺は、その瞬間に、惹かれたと思う」
トールが息を呑んだ。飲み込んだ空気が喉を鳴らした。
「だが、惹かれたのは、お転婆だったから、じゃない」
「あの女の中に、秘めた強さと、強い信念があった。それを、目で見て分かった。自分の身を、後回しにできる女だ。あの目を見れば、分かる。お前のことも、ミナのことも、ガーレンのことも、あいつは自分のことより先に考える。そういうリーラに、俺は惹かれた」
トールは黙っていた。言葉を返す代わりに、焚き火の焔を見つめていた。顎の産毛が焔の色に染まっている。
鍛冶屋の息子の顔は、全部が表情に出る。目元が赤い。感動を飲み込もうとして、飲み込みきれていなかった。
「『ギルドで情報収集している』とリーラが言った時、俺は、半分嘘だろうと思った。何かあるんだろうな、と」
苦い笑いが口元をかすめた。
「まさか、お前らが知ってる通り、本当に結社のど真ん中に踏み込んでる女だったとは、思わなかったがな」
トールが、ふっと、息を吐いた。カイルの苦笑に合わせるように。
「俺は、リーラの隣にいたい。リーラが振り向く先に、いつも俺がいるようになりたい。守るとか、支えるとか、そんな立派な言葉じゃなくて、ただ、隣にいたい」
焚き火の焔が低くなった。薪の芯だけが赤く残っている。
「だが、まだ、言えない。父上と兄上を取り戻すまでは、俺は自分の人生を、自分のものだと言えない」
「兄上が戻ってきたら、その時、ちゃんと、伝える」
長い沈黙が、焚き火の音に溶けた。トールの口が動いた。一度、二度。言葉を探していた。
「カイルさん」
「ん」
「俺、うまいこと言えないんすけど」
三度目だった。
同じ前置き。
でも今度は、声に力があった。
「カイルさんが、リーラさんの隣にいたいって、言ったの、俺、すげえ分かるっす。俺もミナさんの隣にいたいっす。理由とか上手く言えないんすけど、ただ、隣にいたいって思うのは、たぶん、一番正直な気持ちっすよね」
カイルが焚き火から顔を上げた。トールを見た。
「俺、カイルさんがちゃんと言葉にする日を、楽しみにしてるっす。リーラさん、たぶん、泣くっすよ。嬉しくて」
焚き火の向こう側で、トールの顔が橙色に照らされている。耳が赤い。目が少し潤んでいる。
でも、逸らさなかった。
「お前、いい奴だな」
二度目だった。同じ言葉。でも声色が違う。
「人に話したら、殺す」
「うすっ。墓まで持ってくっす」
焚き火が、ゆっくりと燃え落ちていった。薪が灰になり、芯だけが赤く脈打っている。二人とも口を閉じた。
山の風が汗を冷やし、焚き火の残りの温もりだけが岩棚に漂っている。虫が一匹、焔の残像に引かれて近づいてきた。光のない空を回って、やがて暗闇に消えた。
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