第132話 「俺は、リーラが、好きだ」
焔渦を習得した夜だった。庵の裏手、崖の縁に近い岩棚に焚き火を起こした。山の夜は街より静かで、風が庵の隙間を抜けていく音だけが、焔の爆ぜる音に混ざっている。
カイルは焔の中の薪をひとつ、棒先で奥に押し込んだ。火の粉がふっと舞い上がって、暗い空に散って消えた。
トールが焚き火の向こう側に座っていた。盾を横に置いて、膝に肘を乗せている。赤茶の短い髪が焔の色に染まっていた。
しばらく、トールは火を見ていた。喉が鳴った。言うか言わないか迷っている顔だった。口が開いて、閉じて、もう一度開いた。
「カイルさん」
「ん」
「一つ、聞いて、いいっすか」
「言ってみろ」
焚き火から目を離さずに答えた。トールが、また黙った。
薪が爆ぜた。小さな炎が枝の節目を舐めて、じわりと広がった。
「俺、ミナさんに、好きって、言ったんすけど」
初めて焚き火から目を離した。トールの方を見た。トールの手が膝の上で握られている。節くれだった指。鍛冶仕事で厚くなった指だった。
「あれで、ちゃんと伝わってんすかね。もっとこう、なんか、ちゃんとした言い方とか、あったんじゃないかって」
声が低い。いつもの声量の半分以下だった。
「俺、男として、情けないっす」
薪が、ぱちっと音を立てた。
「情けなくは、ない」
短く息を吐いた。
「俺も、同じだ」
トールの目が見開かれた。
「えっ」
「俺はまだ、リーラに、何も、伝えられていない」
焚き火に視線を戻した。橙色の焔が、薪の割れ目で揺れている。
言葉が出かけて、喉の手前で止まった。言うか、言わないか。
焔の奥で薪が崩れた。灰が散って、新しい火の粉が上がった。
「お前にだけ、言う」
トールの呼吸が止まった。
「人に話したら、俺は、お前を殺す」
「うすっ。墓まで、持っていきます」
二人とも黙った。焚き火が顔を照らしている。
「俺は、リーラが、好きだ」
薪が爆ぜた。火の粉が舞い上がって、風に攫われて、暗い山の空に散った。
トールが息を止めていた。肩が固まって、指が膝の上で動かない。吸って、止めて、ようやく、ふっと吐いた。
「うすっ」
「本人には、まだ、言ってない」
トールの口が開いた。何か返そうとして言葉を探し、見つからず、口が閉じる。もう一度開いて、また閉じた。喉仏が上下している。
「俺、頭、悪いんで、上手く言えないんすけど」
声が震えている。感動なのか緊張なのか、本人にも分からないだろう。
「カイルさんが、リーラさんのこと、好きだって俺、なんか、聞けて、すげえ、なんちゅうか」
言葉が追いつかないのだろう。鍛冶屋の息子は鎚を振る腕は太いが、口から出る言葉はいつも不器用だった。それでも、黙らなかった。喉仏が上下して、口が何度も開いては閉じた。
「うすっ。聞けて良かったっす」
それだけ絞り出した。短い。だが嘘がない。
「いつか、言う。父上と兄上を取り戻してから」
トールが頷いた。深く、二度。
焚き火が少し落ち着いて焔が低くなり、カイルが薪を一つ火にくべ直すと、焔がもう一度大きくなった。
「お前、長い話、聞く気あるか」
「うすっ。聞きたいっす」
「馴れ初めだ」
トールの背筋が伸び、盾を横に寄せて姿勢を正した。相棒の大事な話を聞く構えだった。
「俺がリーラとノクスに助けられたのは、お前も知ってる通りだ。下層で魔獣にやられかけた俺を、救ってくれた」
焚き火の光がカイルの横顔を照らしている。
「あの時に俺は、死んでも良かった」
トールの手が動きかけた。薪を持ったまま、途中で止まった。
「えっ」
「待ってください、カイルさん。それ、聞いて、いいことっすか」
「お前にだから、言ってる」
トールの指が、薪を握り直した。節くれだった指が、白くなるほど力が入った。
「三年前、王城を抜けて、父上と兄上の呪いを解く手がかりを探して、何一つ掴めなかった。下層に降りるほど、底に近づくほど、希望が薄くなった。あの夜、魔獣に追い詰められた時、抵抗する意味も、半分、見失っていた」
焔の中で薪が崩れた。灰が散った。
「そこにリーラが来て、ノクスが来た。お前は、生きてていい、と言われた気がした」
トールは何も言えなかった。唇が震えて、言葉を探す目が焚き火の灰に落ちて、そこで止まった。喉が何度も動いた。飲み込んで、絞り出して、また飲み込んだ。
「あの、俺、うまく返せないんすけど」
声色が違う。低くて、少し掠れている。
「リーラさんとノクスさん、そこに行ってくれて、本当に、よかったっす。あの夜、お二人が行ってくれてなかったら、俺、今、ここで、カイルさんと、話せてないんすよね」
焚き火が爆ぜた。
「だから、なんちゅうか、ありがとうっす。お二人にも、それと、生きてくれてた、カイルさんにも」
指が膝の上で開き、握っていた力が抜けた。言い切った顔だった。焔を見たまま、小さく頷いた。
「お前、いい奴だな」
「うすっ」
トールの耳が赤くなった。焚き火の熱のせいだけではない。
薪を一つ、棒先で奥に押し込んだ。
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