第129話 「道が消えた」
――リーラたちがヴィルヌアを発つ数日前。
北方山脈。
カイルは、馬車を降りた場所から三日歩いていた。街道が途切れたのは初日の午後で、そこから先は獣道すら消えた。
岩肌が剥き出しの斜面を、風だけが横切っていく。北方山脈の稜線は雲の中に隠れていて、どこまで登ればいいのか見当もつかなかった。
後ろで、トールの息が荒い。盾を背負ったまま岩場を登っているのだから当然だ。
体の半分ほどある大盾は、平地でも邪魔になる。傾斜四十度の岩肌では足枷と変わらない。
「カイルさん、あと、どれくらいっすか」
「知らん。噂で聞いただけだ。『北方山脈の山頂近くに、人を斬らぬ元剣聖が庵を構えている』と」
「噂って、どこの噂っすか」
「酒場の話を三軒分繋ぎ合わせた」
トールが足を止めた。
盾の縁に顎を乗せて、しばらく息を整えていた。
「それ、たどり着けるんすか」
「たどり着けなかったら野宿して下山する。覚悟はしとけ」
「うすっ」
トールは笑っていた。
こういう時、こいつは迷わない。
四日目の朝、霧が晴れた。山頂の手前、岩壁に囲まれた窪地に、古い庵が見えた。
屋根は石葺き、壁は木と土。庭先に薪が積まれ、井戸の横で木刀が一本、地面に突き立っている。
煙が出ていた。朝飯を作っている匂いがする。
庵の戸が開いて、男が出てきた。七十を超えている。
白髪を無造作に束ねて、腰が少し曲がっている。だが足元の動きだけは別だった。
裸足で岩の上を歩く足運びが、滑らかで、重心がまるでブレなかった。剣士の足だ。
何十年も剣を振り続けた者にしかできない足捌きだった。顔は深く刻まれた皺と日焼けで覆われている。
目だけが若い。薄い灰色の瞳が、こちらを捉えた。
「お前ら、何しに来た」
低い声。敵意はない。
ただ面倒そうだった。
カイルが一歩前に出た。
「ヴァロア殿ですか」
「殿はやめろ。ヴァロアでいい。何しに来た」
「兄貴分を救うために、もっと強くなりたい。修行をつけてもらいたい」
ヴァロアの視線がカイルの腰の剣に動いた。柄に刻まれた傷を一つ一つ見るように、目が細まった。
「お前、焔を使うか」
「少し」
「少しじゃない。手に焔の焦げ跡がある。使い込んでいるな」
何も答えなかった。
ヴァロアの観察眼は、七十の隠者のものではなかった。視線がトールに移った。
背中の大盾を見て、眉が動いた。
「そっちのでかい盾は」
トールが一歩前に出た。
声がでかい。山の朝に反響した。
「トールっす! 鍛冶屋の長男で、Fランクの防御魔法師っす!」
「声がうるさい」
「すみませんっす」
「で、お前は何しに来た」
トールの口が、一度閉じた。開いて、また閉じた。
喉が鳴った。
「俺は、守りたい女がいるんす」
耳が赤い。
ヴァロアが笑った。皺が全部動いた。
笑い声が庵の裏の岩壁にぶつかって返ってきた。
「若えな。よし、上がれ」
踵を返して庵に消えた。薪の匂いと、粥の湯気が漏れている。
トールと顔を見合わせた。
「入っていいんすかね」
「招かれた。大丈夫だろう」
二人で庵の敷居を跨いだ。
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