第126話 「寝ないのか」
別邸の庭に出ると、月が高かった。白い光が芝を青く染めて、薬草畑の葉の一枚一枚に銀の縁取りを落としている。昼間の喧騒が嘘のように、虫の声だけが庭の隅々を満たしていた。
石造りのベンチに腰を下ろした。膝の上でノクスが丸くなっている。尾の先だけが月明かりの中でゆっくり揺れていた。
足音がした。草を踏む音は軽いが、間隔が正確だった。武人の足運びに近い。
振り返ると、月光の中にヴィオラの深紅の髪が浮かんでいた。長い耳の先が、夜風に揺れている。
「リーラ嬢。少し、お話をさせていただけますか」
「ヴィオラさん。ええ、どうぞ」
ヴィオラがベンチの反対側に腰を下ろした。背筋が真っ直ぐで、膝の上に両手を重ねている。
しばらく、二人とも黙っていた。庭の奥で梟が一声鳴いて、その反響が石壁に当たって消えた。
ヴィオラが口を開いた。
「先日のハイレドン補給拠点。あなたの動き、見させていただきました」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
「カイル殿下に支援魔法をかけた時の術式、現代のものではございませんね」
月明かりの下で、ヴィオラの翡翠の瞳がまっすぐこちらを見ていた。観察ではない。確認だった。
「古代の組み方でした。少なくとも、千年以上前の流派」
息が止まった。
ノクスの耳が片方だけ立った。金色の目が薄く開いて、ヴィオラを見ている。
ヴィオラがベンチから降りた。芝生の上に、膝を折った。深く。
神官の正式な礼。両手を胸の前で組み、額を低く下げる形だった。
「私、ヴィオラ・カーレン。九使徒の二番目、神話伝承の記録者にございます。前世より、転生してまいりました」
夜風が止まった。
庭の虫の声が遠くなった。
頭の中で、何かが急速に組み替わっている。
二番目。記録者。前世より。
「転生者」
自分の声が、妙に遠くから聞こえた。
ヴィオラが顔を上げた。目元が微かに震えている。それでも声は揺らがなかった。
「同じ転生者同士、隠す必要はないでしょう。私、四年間、あなたを探しておりました」
「五千年前、あなたの前世、黒髪の九番目大魔女を、私は見殺しにしました」
ヴィオラの手が、膝の上で握られた。指の関節が白くなっている。
「声をかけられず、塔の麓で引き返した臆病者でございました」
月明かりがヴィオラの深紅の髪を照らしていた。長い耳の影が芝の上に伸びている。
「今度こそ、と願って、四年間、あなたを探し続けました」
「ヴィオラさん、少し、待ってください」
目を閉じた。意識を内側に向ける。精神世界の暗闇の中に、いつもの声を探す。
遠い場所にある、冷たい、けれど穏やかな気配。
――神様。
声にならない声で呼びかけた。
――ヴィオラさんに、お話ししてもいいですか。
沈黙が長かった。精神世界の底で何かが動いて、止まって、また動いた。短い言葉が返ってきた。
「問題ない。あの娘は同じ使徒だ。前世のお前のことを、最初から全部知っている」
目を開けた。月が同じ場所にあった。ヴィオラが同じ姿勢で待っている。膝をついたまま、こちらを見上げて。
「私も、転生者です。九番目」
ヴィオラの目が、大きくなった。
「やはり」
「ただ、私には神と契約があって」
言葉を選んだ。
慎重に。
でも、隠す必要はもうなかった。
「前世の力を他人に見せたら、私の記憶を神が全部消すんです。魔法すら使えなくなる。だから、ずっと、力を隠して暮らしてきました」
ヴィオラの唇が微かに開いた。
「神の契約」
「あなたのことは、今、神様が『話していい』と言ってくれました。だから、私は記憶を消されません」
ヴィオラの肩から、力が抜けていくのが見えた。張り詰めていた糸が、一本だけ緩んだ。
「光栄にございます」
「五千年前のことは」
言いかけて、胸の中を探った。五千年前。塔の最期。死んだ時のこと。霧の向こうで何かが光っているのに、手が届かない。
「正直、死んだ時のことはよく覚えていないの。だから、あなたのせいだなんて思っていない」
ヴィオラの目に、光るものがあった。月明かりの中で、一筋だけ頬を伝って、顎の先で止まった。
「ありがとうございます」
声が掠れていた。
ノクスが膝の上で前足を組み直した。金色の目がヴィオラを見ている。呆れでも警戒でもない目だった。
私の相棒が、もう一人の古い同志を見定めている、そんな目だった。
ヴィオラが袖で目元を拭って、立ち上がった。ベンチに戻らず、立ったまま、声の調子を変えた。
「では、お話があります」
神官の声に戻っていた。
「カイル殿下が取り戻された、あの瓶を調べました」
あの二つの瓶。侍従長から取り戻した、骨のような白い瓶のことだった。
「呪いを解く方法が、一つだけあります。骨塚のヴェルガリオン。あの古竜の心臓だけが、あの魂器の触媒になります」
背筋に冷たいものが走った。
五千年前から骨塚に棲む古竜。挑んだ者は誰も帰らない。
――あの竜には、前世で一度だけ会っている。
「カイル殿下のお父上と、お兄上を取り戻せます」
カイルの顔が浮かんだ。焚き火の前で、師匠の話をした夜の横顔。柄の傷に触れる指。三年間、王城を抜けて追い続けてきた男の横顔が、胸の奥で痛んだ。
胸の奥で、何かが固まっていく。決意の形をしたものが、ゆっくりと輪郭を持ち始めている。
「ただ、カイルは連れていけません」
ヴィオラの表情が変わった。
「ヴェルガリオンを倒すには、本気を出すしかない。そうなったら、私の力が、カイルに知られます」
間を置いた。言葉にする前に、もう一度だけ、胸の中を確かめた。
「私たち二人で、骨塚に行きましょう」
言い切った。
迷いはなかった。
「そういう契約、なのですね。承知しました」
ヴィオラの声に迷いはなかった。
「陛下とヴァーン殿下を助けられるとカイルに伝えたら、絶対に付いてくると言う」
「ええ」
「だから、呪いを解く方法が見つかったことも、討伐が終わってから明かす。今は、伝えない」
ヴィオラの目が、柔らかくなった。
「お辛いですね」
「うん。でも、私が選んだことだから」
庭の奥で、梟がもう一度鳴いた。月が薄い雲の端にかかって、芝の上の影が一瞬ぼやけた。
ヴィオラが月を見上げて、声の調子を切り替えた。
「では、作戦の話をしましょう。封印具のこと、道程のこと、あの竜の弱点のこと」
頷いた。
二人だけの秘密が、またひとつ増えた夜だった。
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