第121話 「その背中の印は」
残ったのは四人だった。シャルロット、ミナ、フィオレ、そして私。
湯面に月が映っていた。私が立ち上がり、湯から背中が出た瞬間、シャルロットの視線が動いた。
肩甲骨の間の刻印が、湯気の中に浮かんで見えていた。三人とも、気付いた。
誰も口を開かなかった。
フィオレの兎耳だけが、ぺたんと顔の横に寝た。湯に腰まで沈めると、シャルロットの声が小さく届いた。
「リーラ、その背中のこと」
「うん」
「いつか、話したくなったら、聞くわよ。三人で」
喉の奥が詰まって、目が熱くなった。
「ありがとう、シャロ」
ミナが隣で頷いた。
「あたしも、聞くわよ」
フィオレが小さく、でもはっきりと言った。
「私も、ここに居ます」
四人で、湯の中に肩を沈めた。
肩と肩が触れた。ミナの体温。
シャルロットの体温。フィオレの毛皮の柔らかさ。
月明かりが湯面に伸びて、四人の影を一つに溶かしていた。
――長く生きて、こんな夜は、なかった。
誰にも見せたことのない背中を見られた。何も聞かれない。
聞くわよ、と言われただけだった。目の奥が、急に熱くなった。
湯気のせいだと思いたかった。でも、頬を伝った一筋は、湯より熱かった。
慌てて湯で顔を洗うふりをして、目元を拭った。シャルロットが横目でそれを見て、何も言わなかった。
代わりに、肩を、一度だけ、ぶつけてきた。ミナも、反対側からそっと寄り添った。
フィオレの兎耳が、私の頬に当たって、湯のしずくを吸った。
――もう、止まらなかった。
肩を震わせて、声を立てずに、泣いた。三人に挟まれて、湯と涙が混ざって、どこまでがどっちかも分からなくなった。
誰も慰めず、誰も急かさない。ただ、隣にいた。
それだけだった。
しばらくして、ようやく息が整った。
「ごめんね、みんな」
「謝らないでよ、馬鹿」
シャルロットが小声で笑った。
声に湿った響きが混じっていた。シャルロットも、少し、もらい泣きしていたようだった。
湯上がりの体から湯気が立ち上って、夜風にほどけていく。浴衣の襟元が少し緩んでいて、首筋を風が撫でた。
髪を下ろしたまま歩いている。結い上げる気力が、湯のあとには残っていなかった。
銀に近い髪が肩を滑り、背中の半ばまで垂れている。
月が出ていた。欠けた月。
渡り廊下の手すりに影を落として、板の木目を青白く照らしている。反対側から、足音がした。
カイルだった。
同じく湯上がり。襟元の紐を結びかけたまま歩いてきて、渡り廊下の中ほどで足を止めた。
短く切り揃えた金髪が濡れて額に張りついている。首筋から鎖骨にかけて水の跡が光っていた。
目が合った。カイルの視線が、私の髪に止まった。
下ろした髪を見たのは、たぶん、初めてだ。
普段は束ねているから。
カイルの喉が一度、上下した。それだけだった。
声は出さなかった。髪をかき上げようとした手が、途中で止まった。
指が耳のあたりで宙を掻いて、降りた。渡り廊下の手すりの向こうで、蛍が一匹光った。
緑色の小さな灯が、湯気の中をゆっくり横切っていく。カイルが一歩、近づいた。
板がきしんだ。湯の匂いと、カイルの匂いが混ざった。
木と、革と、わずかに残る鉄の匂い。剣を握る手の匂いだ。
カイルの手が伸びた。
頬に触れようとしていた。
指先が、顎の輪郭のすぐ手前まで来て、止まった。
月明かりの中で、カイルの指が震えていた。
「すまない」
低い声だった。吐き出すような声。
「カイル、どうしたの?」
「俺は、お前を、巻き込んでいる」
渡り廊下の板の冷たさが、足裏からじわりと上がってきた。
「巻き込む?」
「俺の素性、結社、兄上、王朝奪還。全部、俺の戦いだ。お前を巻き込んだのは、俺だ」
カイルの目が、こちらを見ていた。
逸らさなかった。逸らさないまま、声だけが低く沈んでいく。
「お前が傷つくたびに、俺は思う。俺がいなければ、お前は今頃もっと安全な場所にいた」
左腕が疼いた。
副木を外してまだ日が浅い。筋が萎えて細くなった腕。
でも、その痛みを、この男のせいにしたことは一度もない。
カイルの手が、まだ宙にあった。
頬に触れようとして止まったまま、引くこともできず、行き場を失っている。その手を掴んだ。
自分の頬に、押し当てた。カイルの指先が頬に触れた瞬間、湯上がりの熱が指先から伝わった。
掌が大きかった。頬が全部隠れるくらいに。
「カイル、私は巻き込まれたんじゃない」
カイルの目が揺れた。青みがかった灰色の瞳に、月の光が映っている。
「あなたが私を守るんじゃない。私が、あなたを守る側」
「リーラ」
カイルが、目を伏せた。続く言葉を、喉の奥で噛み殺したのが分かった。
「だから、そんなこと言わないで」
カイルの指が、頬の上で微かに動いた。握り返すように。
でもそれは指を曲げる動きではなく、震えていた手が止まっただけだった。
もう一歩、距離が縮まった。
浴衣の襟が触れ合うほどの距離。息が当たる。
湯気と、月と、蛍の緑と。カイルの目だけが、近かった。
「ちょっと、二人とも、夕飯まだなのー?」
シャルロットの声が、渡り廊下の向こう側から飛んできた。
カイルの手が、ゆっくり離れた。
でも、名残惜しそうに、指が頬の輪郭をなぞった。
今までの躊躇いとは違う。残念がる手の引き方だった。
「また話そう」
カイルの口の端が、わずかに動いた。笑みではなかった。
もっと小さな何か。
「うん、また」
頬が熱い。湯のせいではない。
渡り廊下を並んで歩いた。板を踏むたびに足音が二つ重なる。
手の甲が一度だけ触れた。今度は、私のほうから指を絡めた。
隣の足音が、一歩分だけ止まった。
「リーラ」
「シャロが待ってる」
「ああ」
指は絡めたまま、渡り廊下を歩いていった。
蛍の光が一つ、二人の前を横切って、湯気の中に消えた。
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