第120話 信じていい
「で、ミナ」
シャルロットが紅茶を飲むような自然さで言った。
「トールとはどこまでいったの?」
ミナの背筋が伸びた。
「ちょ、姐さん、いきなり」
「いいから言いなさい。湯の中の話は、湯から出たら忘れるわよ」
ミナの耳が湯の蒸気で赤いのか、別の理由で赤いのか、判別がつかなかった。顔の半分を湯に沈めて、泡と一緒に声を出した。
「えっと、手は、繋いだ。あとは、あの、頬に、一度」
シャルロットが噴き出した。
湯が飛沫を上げた。
「たったそれだけ? あの朴念仁、何やってんのよ」
「だ、だって、トールが『お前を大事にしたい』『焦らない』って」
シャルロットの目が少しだけ柔らかくなった。
「いい男ね。それは。あんた、逃がしちゃだめよ、絶対」
ミナが小さく頷いて、「はい」と答えた。
フィオレの兎耳がぴくんと立った。
「ミナ様、お幸せそうですね」
ミナが湯に顔を半分沈めた。
「うん、幸せ」
シャルロットがフィオレに目を向けた。
「フィオレ、あんたは? ヴェイン家の坊や達、誰かいないの?」
フィオレの耳がぺたんと寝た。
「私は、その、獣族なので、人間の方々とは」
「種族関係ないわよ。可愛いか可愛くないかだけ」
ミナが横から割り込んだ。
「フィオレちゃん、めっちゃ可愛いじゃない! 耳が反則よ」
フィオレの耳がぴくぴくと忙しく動いた。
「ありがとうございます」
「で、リーラ」
シャルロットの視線が、まっすぐこちらを向いた。
「あんたとカイル殿下は、どこまでいったの」
私は湯に肩まで沈んだ。
「手を、繋いだだけ」
三秒の沈黙。
シャルロットの声が呆れを通り越して、もはや感嘆に近かった。
「あんたら、本当に、何やってんのよ」
ミナが身を乗り出した。
「リーラ姉さん、もうカイル兄さんと暮らしちゃえばいいのよ」
「う、うん」
シャルロットが湯の中で腕を組んだ。
「あんた達、結婚するなら、あたしが取り仕切ってあげるわよ。王家の結婚だからスケールが違うわ」
フィオレの兎耳が嬉しそうに揺れた。
「お嬢様の結婚式、見たいです」
ミナが拳を握った。
「私も! 絶対参列するわよ!」
「みんな!」
声が裏返った。
「話早すぎよ! ちょっと待って」
顔が熱い。湯のせいだけではなかった。
全員が笑った。湯面が揺れて、月の映り込みが砕けた。
――このまま私の話が続いたら、シャロは嫉妬の話までしちゃうかも。
「あ、あの、ところで、ルーシェさん」
ルーシェが顔を上げた。眼鏡のない顔が、湯気の向こうで不安そうに揺れている。
「え? 私?」
「ルーシェさん、ここ最近、何か思い詰めてるみたいで、話せたら、聞かせてください」
ルーシェの肩が、ほんの少しだけ硬くなった。シャルロットが、湯の中でゆっくりルーシェの方を向いた。
今度は茶化す目じゃなかった。
「ルーシェ、話していいわよ。湯の中の話は、湯から出たら忘れるから」
長い沈黙。
湯気の中で、ルーシェの唇が何度か開きかけては閉じた。
「あの、私、ずっと研究ばっかりで、恋は恋愛小説の中でしか知らなくて」
「うん」
「だから、変な勘違いをしているのかも、しれないんですけど」
「うん」
「ガーレンさんみたいな、ハードボイルドの男性って、たぶん、私みたいなのは、初めてじゃないですよね」
シャルロットが何も言わずに、ルーシェの言葉を待った。
「美女に慣れていらして、その場限りの女性も、たくさんいて、私みたいな三十前の独身で地味な学者なんて、その日の気晴らしくらいにしか思ってないかもしれない、って」
「だから、本気にしちゃいけないって、頭では分かってるんです。でも、心が、勝手に期待してしまって。それで自己嫌悪に」
ルーシェの肩が震えていた。
ミナが何も言わずにルーシェの隣ににじり寄った。肩が触れる距離。
シャルロットが、湯気を片手で軽く払って、ルーシェの目をまっすぐ見た。
「ルーシェ、聞いて」
声が低く、揺らがなかった。
「ガーレンが、その場限りの女と寝るような男かどうかは、あたしが一番よく知ってるの。あたしの家の諜報員よ、何年も見てきたから」
ルーシェが目を上げた。
「あいつは、好きじゃない女には、絶対に手を出さない。仕事相手の女工作員にも、最低限の距離を取る男。プロの諜報員として、それを徹底してる」
「あんたに手を出した時点で、もう本気よ。あいつの仕事の流儀で、それだけはあり得ないの」
ルーシェの目に、涙が滲んだ。湯気と混ざって、頬を伝う前に消えた。
私もルーシェの肩に、そっと手を置いた。
「ルーシェさん。私、別邸の書斎で、あなたとガーレンを何度か見てます。あの人、あなたを見る時の目だけ、他の誰を見る時とも違うんです。すごく、優しいの」
ルーシェが顔を覆った。指の隙間から、声が漏れた。
「怖いんです。信じていいのか」
「信じていいわよ」
シャルロットが、はっきり言った。
「あんたが信じても、あいつは絶対、裏切らない。あたしが保証する」
長い沈黙。
湯気の中で、ルーシェがゆっくり頷いた。シャルロットが湯に沈みながら、次の質問を投げた。
「で、いつ、答えを出すの?」
ルーシェが俯いた。
「分からないです。怖いんです、まだ」
シャルロットが頷いた。
「いいわよ、ゆっくりで。あの男、待つって言ったんなら、待つわよ」
フィオレが耳をぴくぴくさせながら、小さな声で言った。
「ルーシェ様、お幸せに、なってください」
ミナが頷いた。
「あたしも、応援するわよ」
私も頷いた。
「うん。私も」
ルーシェの目から、また一滴。
「ありがとう、ございます」
声が揺れていた。
でも、崩れてはいなかった。
ヴィオラが静かに湯から立ち上がった。
深紅の髪が背中に張りついて、湯の雫が肌を伝っている。
「私、少し、外で夜風に当たってまいります」
肩まで沈んでいたルーシェが、湯面から顔を上げた。手の甲で目尻を押さえた。
「あ、私も、お湯あたりしそうで」
ヴィオラがルーシェの肩に手を添えた。
「ルーシェさん。後から悔いるのは、伝えなかった時です。今しか、ないのですよ」
ルーシェの目に、また湯気でない一滴が滲んだ。
「ありがとうございます、ヴィオラ様」
二人が静かに湯から上がった。
ヴィオラが手拭いをルーシェに渡して、二人で脱衣所に消えていく。
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