第118話 温泉街
ルーシェの勧めで、湯治宿に移ることになった。
「トールさんの毒抜きの仕上げに、硫黄泉が効きます。古代医学書にも記載があって。地脈の魔素が血中の残留毒素に干渉して」
ルーシェが早口で説明するのを、シャルロットが手を挙げて止めた。
「要するに、温泉に入れば早く治る?」
「はい」
「行きましょう」
朝霞の中、別邸を発った。馬車で北へ一日。陽が傾く頃、深い谷の底へ降りていった。
「うわあ、すごい」
フィオレが幌の縁から身を乗り出して、兎耳をぴくぴく揺らした。
谷の両岸に、三層から四層の石造りの宿がびっしりと並んでいた。窓は縦長で、出窓の格子に鉄細工の唐草模様。赤茶けた瓦と銅板の屋根から、雪解け水が細く滴っている。
「いい街だな」
カイルが目を細める。十年前に一度来たことがあるという。
谷の中央を細い川が流れていて、両岸を結ぶアーチ橋が幾本も架かっている。橋の欄干に据えられた鉄細工の燭台をはじめ、もう街じゅうの魔石灯が灯っていた。
日が沈みきって、谷の上の空が紫から濃紺に変わっていく。川面に金色の光が長く揺れた。
街全体が湯気の中に沈んでいた。源泉が川に流れ込み、川面からも、宿の屋根の隙間からも、白い蒸気が幾筋も立ち上って、夜気の中で青白く浮かんで見える。
馬車を本通りの入口で降りて、徒歩で宿へ向かった。石畳が、靴底越しに温かかった。
「冬でも雪が積もらないんだ」
カイルが歩きながら教えてくれた。
「地下に温泉が通ってて、石畳まで温まってる」
ヴィオラが膝を折って、手のひらを石畳に当てた。
「本当ですね。温かいです」
本通りの両側に屋台が並んでいた。
「いらっしゃい、若いの。シチューはどうだい? 温泉水で煮込んだ豆と燻製肉、骨まで柔らかいよ」
鉄鍋を振っている髭の男が、シャルロットに声をかけた。
シャルロットが軽く頷いて「帰りに寄るわ」と返す。
その隣で、籐籠を抱えた老婆がジャガイモを蒸していた。
「地獄蒸しだよ、塩振っただけが一番うまいんだ」と、ミナに一個差し出してきた。
ミナが財布を出そうとすると、老婆が「初めての客はおまけだ」と笑った。
ミナが包みを受け取って、トールの口元に運ぶ。
「あ、あんたも食え。回復しろ」
「うすっ。熱いっす」
「バ、馬鹿。冷ましてから食べて」
立ち上る蒸気と硫黄、焼き栗とライ麦パンの匂いが夕方の風に混ざって流れてくる。歩く人々の半分が、湯治用の白い長衣に身を包んで、首にタオルを掛けていた。
獣族の親子連れが手を繋いで歩いている。長命のドワーフ族の老人が石卓でチェスを指していて、対局相手のエルフ族の老婆が長考に入っていた。サフィアル交易連合から来たらしい褐色の肌の女が、髪を巻き上げて湯気の中を歩いていく。
宿は谷の中ほど、川向こうの三階建てだった。アーチ橋を一本渡る。
私の足が橋の真ん中で止まった。欄干から下を覗くと、川に源泉が流れ込んで湯気が立ち上り、橋の上まで湯の匂いが届いていた。
「リーラ」
カイルが先に渡って、振り返った。無言のまま、片手を差し出している。その手を取って、橋を渡りきった。
真鍮の取っ手の重い扉を、ガーレンが押し開けてくれた。扉を抜けると、磨き込まれた木の床に、足音が鈍く響いた。
「いらっしゃいませ」
帳場の奥から、宿の女将が出てきた。五十がらみの恰幅のいい女で、エプロンの裾で手を拭きながら笑顔を作る。
「ヴェイン家からのご予約ですね。長旅、お疲れさまでございます」
帳簿に名前を書いている間、女将がちらりとトールの方を見た。ガーレンに背負われたトールの顔色を一目で見て取って、表情を変えずに番頭を呼ぶ。
「離れの奥、一番静かな部屋を。あちらの若い方が、まずお休みになれますように」
ミナが頭を下げた。
「すみません、女将さん」
女将がトールとミナを交互に見て、何か察したように微笑んだ。
「お客様も、どうぞごゆっくり。お困りごとがあれば、なんなりとお申し付けくださいね」
番頭の老人が燭台を掲げて、廊下を先に行く。木の床がきしむ音が、足取りに合わせて続いた。
廊下の窓の外に、谷の夜景が見える。魔石灯の金色の光が、川面で揺れていた。湯気の向こうから、誰かの笑い声が遠く聞こえてくる。
「リーラさん、シャルロットさん、フィオレさんは、こちらのスイートルームになります。客間のほかに、それぞれ寝室がございます。ヴィオラさんとルーシェさんは隣り合う個室で」
番頭が引き戸を開けた。足を踏み入れると、広い客間が目に入った。長椅子と低い卓、暖炉まで設えられている。
客間の奥に三つの扉があって、それぞれの寝室に分かれているらしかった。窓は二面に設けられて、両面とも谷側に向いていた。
「うわ」
窓の前に立ったフィオレが、思わず声を漏らした。
番頭が窓を押し開ける。夜の谷が一気に広がった。
両岸の宿に灯る幾百もの魔石灯。川面で揺れる金色。湯気の柱。冷えた夜気の中に、硫黄の匂いだけが温かく漂ってくる。
それぞれが自分の部屋に荷物を下ろしに散った。離れの奥にミナとトール。隣の離れにヴィオラ。さらに隣にルーシェ。本館の二階にカイルとガーレン。
しばらくして、皆が私たちの客間にひとり、ふたりと戻ってきた。長旅で同じ顔ぶれだったから、それぞれの部屋で一人になるのが、まだ落ち着かない。
「来たな」
カイルが私の隣に立って、短く言った。
「うん。温泉に来た」
胸の奥で、何かが緩んだ。馬車で固まっていた肩が、自然に下がる。一日の旅路の疲れが、景色だけで半分ほどけた。
シャルロットが暖炉の前で大きく伸びをした。
「あー、もう、頭から湯に飛び込みたいわ」
ミナが長椅子に座って足を伸ばす。
「あたしも、もう限界。トールはもう離れに寝かせてきたから、心置きなく入れる」
廊下の向こうから仲居が盆を持ってきた。人数分の湯呑みが並んでいる。蜂蜜と生姜の匂いがした。
「女将からです。長旅のお疲れに、と」
ミナが両手で湯呑みを包んで、ふうっと息を吐いた。張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ顔だった。
ヴィオラが微笑んだ。
「では、お先に湯へ参りましょうか。リーラ嬢、シャルロット様、フィオレさん、ミナさん、ルーシェさんと、女子六人で」
シャルロットが肩をすくめて笑った。
「ヴィオラ、あんた、もう仕切り役じゃない」
「お恥ずかしい限りにございます」
ガーレンが客間の入口から顔を出した。
「俺は宿の主と少し話してから上がる」
カイルが肩の力を抜いた。
「俺も、後で行く」
夜の湯気の中、それぞれが、それぞれの方向へ動き始めた。
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