第117話 「あれ、何かあったわね」
翌日の午後、書斎の長机に布が広げられた。ハイレドンの補給拠点で押収した品を、ルーシェが一つずつ並べていた。
古代術式の触媒が三つ。見覚えのない金属片が五つ。
祭壇道具の欠片。
そして、血の盃。
盃は手のひらほどの大きさで、縁に細い刻印が走っている。底に黒い染みが残っていた。
血の匂いはもうしない。乾いて、鉄の色だけが残っている。
ルーシェが眼鏡を直して、古代文献の束を机に広げた。頁をめくる指が速い。
女の顔から学者の顔に切り替わるのは、いつも一瞬だった。ガーレンが壁際に立っている。腕を組んで、視線だけがルーシェの手元を追っていた。
「リーラさん、これ、断定はできないんですけど」
ルーシェの声が変わった。机の上の文献と盃を交互に見比べながら、眉が寄っていく。
「文献にも、定型と呼べる儀式は記されていないんです。第九を呼んだ、封じた、生贄に捧げた。記録は数千年に数回しかなくて、しかも書き手によって全部違う」
指先が盃の縁の刻印をなぞった。
「でも、押収品の組み合わせは、その散らばった記録のいくつかと部分的に符合します。特に、この血の盃の刻印は」
ルーシェが文献の一頁を指で押さえた。古代神官の手記の写本。黄ばんだ紙に、細い墨書きで記された文字列。盃の底と同じ紋様が描かれている。
「ある古代神官の手記に出てくる『第九の血を入れる器』と、似ている」
カイルの呼吸が一瞬止まり、シャルロットの指が紅茶のカップの縁で止まった。ルーシェが眼鏡の奥から私を見た。
「結社が独自に再構成している、というのが、私の今の見立てです。完全な儀式の復元ではない。散らばった断片を繋ぎ合わせて、自分たちなりの式を組んでいる」
背中が熱かった。肩甲骨の間、あの刻印が、微かに脈を打つように熱を持った。
服の上からでは見えない。誰にも気付かれない場所で、熱が満ちていく。
結社の最終目的の輪郭が、一層鮮明になった。
私が儀式の依代。可能性は、高い。
無意識のうちに、私の指がカップの縁を強く掴んでいたのだろう。カイルの手が、その指先に重ねられた。
理屈は分かっていない顔に見えた。ただ、私の様子がおかしいことだけが分かった、という手の置き方だった。
重くも軽くもない、確かな圧。何も聞かなかった。ただ、そこに、いた。
「ルーシェさん、ありがとう。続けて、解析を」
「はい。文献を集めながら、断片を繋いでみます」
ルーシェが文献の頁を閉じた。次の写本を引き寄せて、また眼鏡を直した。
ガーレンが壁から離れて、机の横に立った。ルーシェが金属片の一つを裏返そうとして、隣のインクの瓶に肘が当たった。
瓶が傾いた。
ガーレンの手が伸びた。瓶が倒れる前に、底を支えた。
指先が触れた。ルーシェの指の上に、ガーレンの指が重なった。
一瞬の接触。ルーシェの手が、そのまま動かなくなった。
ガーレンが瓶を机に戻して、手を引いた。
「気をつけろ」
「は、はい」
ルーシェの耳が赤い。レンズの曇りを拭おうとした指が、狙いを外れてフレームの端を叩いた。
書斎の空気だけが、一段重くなった。
シャルロットが私の袖を、軽く引いた。
――気を遣ったのだ。
「リーラ、紅茶のお代わり、淹れ直してくる。手伝って」
「うん」
二人で書斎を出た。
扉を閉める間際、ガーレンがルーシェの傍に一歩近づくのが見えた。何かを低く話しかけたようだった。
ルーシェが俯いた姿が、扉の隙間の最後の景色だった。
廊下に出てから、シャルロットが小声で囁いた。
「あれ、何かあったわね」
「女同士で、後で聞く」
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