第116話 朱い煙
退避させてあった馬車に全員が乗り込んだ。カイルが最後に走り込んできた。
肋骨を片手で押さえたまま「出してくれ」とだけ言った。
ハイレドンの夜が、車輪の音に押されて後ろに流れていく。
マルセオの宿で一夜を明かし、翌朝ヴィルヌアへ向けて街道に出た。帰路には三日を要した。
最終日の午後。トールがミナの膝の上に頭を預けて眠っていた。
肩口の包帯は何度か巻き直されて、ガーレンが調合した薬の匂いが幌の中にうっすら漂っている。ミナは黙って、トールの赤茶の髪を、前髪の根元から後ろへ、ゆっくり、何度も撫でていた。
寝息が乱れるたびに指が止まって、また呼吸が落ち着くと再開する。口元が動いた。声にはならなかった。
唇の形だけで読めた。馬鹿。
ノクスが膝の上で尾を一度だけ揺らして、また目を閉じた。別邸に着いた頃には、空が赤から紫に変わり始めていた。
フィオレが門の前で待っていた。兎耳が風に揺れて、馬車の音に反応してぴくんと立った。
フィオレがトールを降ろすのを手伝おうとしたが、それより早くガーレンが肩を貸していた。
「離れの部屋に寝かせてくれ。枕を高くしろ」
ガーレンの声は短かった。トールの体重を片腕で支えたまま、石段を上がっていく。ミナがその横について、包帯の端を押さえていた。
離れの扉が閉まった。
廊下に残ったのは、シャルロットと私だった。
フィオレが薬草茶を淹れてくれた。二人で縁側に座って、飲んだ。
庭の虫の声と、時折離れから聞こえるガーレンの低い声だけが、夜の別邸に響いていた。しばらくして、ガーレンが離れから出てきた。
「峠は越えた。あとは眠らせておけばいい」
それだけ言って、自分の部屋へ消えた。
シャルロットが椀を置いて、立ち上がった。
「ちょっと見てくるわ」
「うん」
二人で廊下を歩いた。離れの部屋の前で足を止めた。扉が薄く開いている。隙間から、灯りが漏れていた。
ミナがトールの枕元に座っていた。額の汗を拭いている。手拭いを絞り直して、また額に当てる。
蝋燭の灯りに照らされ、トールの顔色が少しずつ戻っていく。やがてトールの目が薄く開いた。
「ミナさん」
「喋るな。寝てな」
「すみません」
「謝るなって言ってんでしょ、馬鹿」
声が震えている。怒っているのか泣きそうなのか、分からない声だった。
手拭いを持つ指が白くなるほど握り込まれている。トールが笑った。口元だけの、小さな笑い。
「ありがとう、ミナさん」
ミナが顔を逸らした。手拭いを畳むふりをして、膝の上で何度も同じ面を折り直している。頬が、隠しきれない色をしていた。
シーツの上で、二人の指が絡まった。トールの太い指がミナの細い指を包むように。ミナの指がそれを握り返すように。
どちらが先だったのかは、見えなかった。
シャルロットが私の袖を引いた。目が合うと、口の端が僅かに上がっていた。
「隠す気、ゼロね」
「うん」
そっと扉を引いた。音を立てないように。
二人の指が絡まった光景を、灯りの隙間に残して。
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




