第113話 血錆の刃(四)血錆昇華
その瞬間、ザイラの胸の穴が、内側から閉じた。倉庫全体が暗くなった。
肩のノクスの体が、ぶわっと膨らんだ。爪が首筋に食い込む。私だけに届く声で、低く呟いた。
「逃げろ」
その一言で、背筋が凍った。
松明の炎が一瞬で半分の高さに縮み、魔導灯が黒く濁った。気温が一段下がった。
「あら」
ザイラの声が、低い場所から這い上がるように響いた。
「まだ私、終わらせてもらえないみたいよ」
倒れていた体が、ゆっくりと立ち上がった。
胸の穴から、血ではなく濃い影が滴り落ちている。革鎧の縫い目から、黒い瘴気が筋状に噴き出していた。
両目の色が変わっていた。白目までが黒く染まり、瞳孔だけが赤い点として浮かんでいる。
短刀を握り直した手の甲に、古代文字の刻印が黒く浮き上がっていた。
「これが、私の本当の依代よ。マヌエル様の改造、無駄じゃなかったってこと」
ヴィオラの顔から表情が消えた。
「禁術『血錆昇華』。自分の血を触媒にして、影に体ごと喰わせる術。伝承でしか聞いたことが―――」
「そう。神話典に名前だけ残ってる、あれ」
ザイラが笑った。
今度は口元だけではなく、影そのものが嘲笑っているような気配だった。
「もう私、痛みを感じないの。毒も効かない。傷も塞がる」
「逃げて!」
ルーシェが叫んだ。
ザイラの姿が一瞬で消えた。気配ではなく、物理的に。
倉庫の影という影から、十数本の腕が同時に伸びた。一本がカイルの胸当ての縁を斜めに掠った。
革が裂け、薄い赤線が肋骨の上を走った。カイルが咄嗟に半歩退いて致命は避けたが、傷口から血が滲み始めた。
「散開! トール前!」
シャルロットの号令が飛んだ。
双剣を抜き直して、視線が一瞬で全員の位置を確認する。太腿の血を片手で押さえながらも、声は冷えていた。
「了解っす!」
トールが盾を前に突き出して、低く突進した。ザイラの影から飛んできた最初の刃を、盾の正面でドンッと受け止める。
鉄板が悲鳴を上げ、トールの両足が床を擦って後退した。それでも盾は下ろさない。
「ミナ、牽制!」
「了解よ、姐さん!」
ミナの双短剣が逆手から正手に持ち替わり、続けて投擲ナイフが三本。影の中心に向かって、扇形に飛んだ。ザイラの本体がどこにいるか分からないなりに、影の濃淡の中心を狙って当て込む。
ナイフが影に飲まれた。だが、影の動きが一瞬鈍った。
「私が斬る」
シャルロットが前に出た。
だが、足が遅れた。
太腿の傷だ。さっき影に掠められた箇所から、革のスカートに新しい血の線が伸びている。踏み込みの最後の一歩が、いつものシャルロットのキレに届いていない。
私は半歩、踏み出していた。すぐに踏みとどまった。前に出ても、私にできることは何もない。
ザイラの本体が影から滲み出て、その鈍った踏み込みを正面から受け止めた。短刀二本がシャルロットの双剣に噛み合った。
火花が散る。鍔迫り合いになった。
「シャルロット、強情ね」
「あんたよりはマシよ」
シャルロットの声が、噛みしめた歯の隙間から漏れた。
「私はね、ザイラ。あんたみたいに、自分の体を捧げて誰かに尽くす真似はしないの。あんたは、マヌエルの剣でしかないじゃない」
ザイラの瞳の奥で、赤い点が一瞬揺れた。
「お前には、見えてないのよ」
ザイラの声が、嘲りから、もっと深いものに変わった。
「マヌエル様が、導師様が、これから建てる新しい神の世界。人の手で作る本物の神聖な世界。私は『選んだ』のよ、お嬢様。あんたは『選ばなかった』だけ。同じ女なのに、見えてる景色が違うのよ」
押し合いが、シャルロットの傷ついた足の方が、先に崩れた。
ザイラの短刀がシャルロットの双剣を弾き上げ、空いた胴に肩から体当たりが入った。
シャルロットの体が一直線に飛んで、倉庫の側壁に背中から激突した。木箱の山が崩れて、その上にシャルロットが倒れ込んだ。
「シャルロット様!」
ルーシェが古代文献を木箱の上にひっくり返したまま放り、シャルロットに向かって走り出した。
エプロンの紐がほどけているのにも気付いていない。
私の視界の隅で、影が滑り込むのが見えた。ザイラが、ルーシェの動線に先回りしている。距離五歩。
走り込んでいる学者の腹を狙って、短刀が下から斜めに伸びてきた。
「ルーシェ先生、止まって!」
声を上げた、その時にはもう遅かった。
「っ」
ルーシェの声にならない悲鳴。
間に合わない。
「ルーシェ先生っ!」
ガーレンの吹き矢が一瞬だけ早かった。針がザイラの肩を掠め、動きが少しだけ鈍る。
私の叫び声と、ガーレンの針と、二つに反応して、ルーシェが身を捩った。短刀の切っ先がルーシェの脇腹を浅く割いた。
血が、白いエプロンに、滲んだ。ルーシェがその場に膝をついた。
「ルーシェさん――!」
今までずっと落ち着いていたヴィオラの声が、初めて尖った。
ザイラが短刀を一度だけ振って血を払った。
倉庫の中央に、影の腕を全方位に展開したまま、笑っている。シャルロット、ルーシェ、二人を一度の連撃で戦線から外した。
「早すぎる」
思わず呟いていた。
前世の感覚で測っても、ザイラの速度は古代の一級刺客のそれだった。改造で得たものだとしても、あの速さは、もう人間の域ではない。
ザイラが舌で唇を舐めた。
「もう半分、潰したわよ。残りも、すぐ片付けてあげる」
「ミナさん、合わせるっす!」
トールの声が、絶望に向かって杭を打った。
トールが踏み込んだ。シャルロットとルーシェの二人を一度に守る位置に、盾ごと自分の体を割り込ませる。
ザイラの影の腕がもう数本伸びかけたが、トールの盾が真正面から押し返した。ミナが横から肩を当てて、二人がかりで盾を押し込む。
ルーシェは膝をついたまま、片手で脇腹を押さえていた。震える指が、木箱の上の文献に伸びている。
それでも、声を絞り出した。
「ヴィオラ、様っ」
ヴィオラが振り返った。
「ルーシェさん」
「影の波長は、前と同じ、深紅……ただ、出力が、二段上がっています」
激しく息を乱しながら、途切れ途切れの言葉を必死に繋いだ。
「結界を……二段重ねにすれば……いけ、ます!」
そこまで言い切って、ルーシェは床に手をついた。倒れる手前で、ようやく自分の体を支えていた。
ヴィオラの翡翠の瞳が、一瞬だけ揺れた。
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