第110話 血錆の刃(一)影の短刀
その扉が、音もなく開いた。血錆色の革鎧を纏った女が、暗がりの中から一歩を踏み出した。短刀を二本、逆手に握っている。
気配が、なかった。
扉が開く音も、靴が床を踏む音も、呼吸さえも。存在そのものが希薄で、影の中から滲み出てきたように見えた。
黒い髪を短く切り揃えて、目の下に古い切り傷の痕。年齢の見当はつかなかった。若くも見えるし、戦場を渡り歩いてきた老獪さも見える。
口元が薄く歪んでいた。
「あら、よく、ここまで来たわね、ルグランドの王子様」
カイルのフレイムソードが構え直された。
「マヌエル様から、貴方達を生け捕りにしろと命じられているのよ」
女の視線が、カイルを通り越して、私を見た。
「特に、銀の髪のお嬢さん」
背筋に氷が走った。
ヴィオラの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「血錆の刃、マヌエル直属の刺客、ザイラ・コーヴェン」
女が、ザイラが、ヴィオラに目を向けた。
「あら、ヴィオラ・カーレン。神官学校時代の同期じゃない。久しぶり」
ヴィオラの翡翠の瞳が、一瞬だけ細まった。唇が薄く開いて、閉じた。
「貴女、結社に堕ちたのね」
ザイラが笑った。口の端だけの、乾いた笑い。
「堕ちた、じゃない。選んだのよ」
ザイラの左手が動いた。短刀の刃に沿って、影が伸びた。
床を這い、壁を這い、天井を這って、短刀が六本に分裂した。
影で編まれた刃が、ザイラの周囲を旋回している。
カイルが踏み込んだ。
「焔穿」
焔の槍が走った。ザイラの胸を狙った一撃が、影の短刀に切り裂かれた。焔が散って、火の粉が倉庫の床に散った。
カイルの足が止まった。
「これは」
ザイラが短刀を回した。影が渦を巻いて、焔の残り火を吸い込んだ。
「あんた程度の若造の焔じゃ、私の影は斬れないわよ」
シャルロットが正面から踏み込んだ。双剣が交差して、ザイラの胴を狙う軌跡が夜気を裂いた。風魔法を乗せた刃が空気ごと薄く引き裂いて、倉庫の木壁に白い線が走る。
だが届かなかった。ザイラの足元から影が壁のように立ち上がって、シャルロットの双剣を正面から受け止めた。
同時に、影の下部から細い触手が伸びて、シャルロットの右太腿を浅く切り裂いた。衝撃が腕を肩まで震わせる中、傷の痛みに気付く暇すらなかった。
シャルロットの体が浮いて、背中から木箱の山に突っ込んだ。箱が三つ砕けて中身が散らばる。革のスカートに、赤い線が一筋滲んでいた。
シャルロットが箱の破片を払いながら、すぐに身を起こした。
背中の打撲も致命には見えず、双剣の柄を握り直す動作だけは滞らない。けれど、踏み出した右足が、わずかに引きずるように遅れていた。
「シャロ姐さん!」
ミナが叫びながら、腰の双短剣から投擲ナイフに切り替えた。三本を同時に投げる。
指の間から銀が走って、ザイラの首筋と両膝を狙った。
ザイラの影が揺れた。壁ではなく、薄い膜のように広がって体全体を包み込んだ。
ナイフが三本とも膜に触れた瞬間、弾かれて石畳に滑り落ちた。乾いた金属音が三つ重なった。
「投げ物で私の影は斬れないわよ、お嬢ちゃん」
ザイラが笑った。血錆色の革鎧に汗一つ浮いていない。短刀を二本、指の間に挟んだまま、余裕の立ち姿で六人を見渡している。
カイルが舌打ちした。フレイムソードの刃がまだ朱色に熱を帯びている。焔穿を二度放ったが、どちらも影に食われた。
「盾だ、トール」
カイルの声が低く飛んだ。トールが盾を構え直した。
木の芯に鉄板を張った大盾を胸の前に引き寄せて、膝を深く落とす。シールドの呪文を唇だけで唱えた。盾の表面に薄い光の膜が走って、鉄板の隙間から魔力が滲んだ。
カイルの半歩前に出た。カイルの死角を、盾ごと塞ぐ構えだった。
ザイラの影が動いた。六本に分裂した短刀のうち、二本が正面からトールの盾に叩きつけられた。
衝撃が腕の骨を伝って肩を叩いた。シールドが軋んだ。
もう二本が左右に散って、カイルの横を抜けようとする。さらに残り二本が背後の天井から降ってきて、カイル後方の床に突き刺さって牽制になった。
トールが盾の角度を変えた。半歩横にずれて、左から回り込んできた短刀を鉄板の縁で弾いた。
右から来た一本が、盾の縁を回り込んだ。鉄板の端を滑るように通過した刃が、トールの右肩口に入った。
「っ」
トールの膝が揺れた。だが盾は落とさなかった。指が白くなるまで握りを締め直しているのが見えた。
「トールっ――!」
ミナの叫びが倉庫の天井に反響した。
ザイラの口の端が上がった。回り込んだ短刀が元の影に戻っていく。刃の先端に、紫がかった液体が薄く光っていた。
「盾守り、自分の盾を信じすぎたわね」
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