第11話 「お姉ちゃま、おかえり!」
本邸の正門を抜けた。薬草園の上に夕闇が落ちていて、玄関の灯りが廊下を温かく照らしていた。
「ただいま」
声を出すより先に、奥から小さな足音が駆けてきた。
「お姉ちゃま、おかえり!」
ノエルが廊下の角を曲がって飛び込んできた。両手を広げて、勢いそのまま私の腰にしがみつく。
「ちゃんと帰ってきた」
「約束したから」
「うん」
ノエルが顔を上げると、目が一瞬輝いた。
母が食堂から顔を出した。
「お帰りなさい、夕食を」と言いかけて、私の外套の血を見て、母は言葉を呑んだ。
背後の侍女のマルタに「温め直して、二階の彼女の部屋に運んで」と短く指示してから、私に向き直る。
何も聞かなかった。聞くべき時を知っている人だった。
ノエルを母に預けた。
ノクスを肩に乗せたまま、二階へ上がった。自室の扉を閉めた。
窓の外、薬草園の向こうで街灯が一つ揺れている。虫が光の周りを飛んでいた。
部屋の隅の小さな暖炉に火を入れた。乾いた薬草の香りが部屋に満ちていく。
母が分けてくれたカモミールの束が天井から逆さに吊るされていて、明かりに揺れていた。
マルタがトレイを運んできた。スープと、温め直されたパン、肉。
礼を言って受け取り、机に置いた。
匂いはわかる。空腹なはずだ。
手は伸びなかった。
ノクスが机に飛び乗って、肉の皿に顔を突っ込んだ。
「ノクスの餌じゃない」
「二・五倍の前借りだ」
諦めてスープだけ飲んだ。
温かさが喉を通って、ようやく一日が終わった気がした。
ノクスが窓枠に跳び乗ると、月明かりが黒い毛並みを青く光らせた。
「今日、カイルの前で詠唱した」
「ああ」
ノクスの前でだけ、本当の声で喋れる。
「あの剣士、聞こえてた可能性がある」
「意識がなかった。聞こえてない」
「断言できるのか」
「できる」
ノクスの尾が窓枠の端を叩いた。
「次もやるつもりか」
「やる」
ノクスの耳が止まった。
「カイルが死にかけたら、また魔法を使う。契約がどうなっても」
ノクスは黙って窓枠から降り、床に着地してからベッドに飛び乗った。枕元まで歩いて、前足でシーツの皺を二度踏んでから丸くなった。
爪は出していなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。窓の外で虫が街灯の周りを回る音が聞こえた。
小さな羽音。規則的に、同じ光の周りを。
「十八年だぞ」
前足が一度、シーツを掻いた。爪が布を引っかける小さな音がした。
ノクスの爪は普段出さない。出ていた。
「お前が生まれて十八年間、嘘をついてきた。あの御者も、前の商隊の奴らも、去年の山岳依頼の冒険者も、今日のギルドの連中も。全員、俺がやったと思ってる」
私の手がノクスの背に触れた。毛並みが指の間を通った。
柔らかかった。この小さな体に、十八年分の嘘を全部載せてきた。
「お前が自分から引き寄せた剣士だ。離れないタイプだってのは見ればわかる。明後日も来る。来年も来る。嘘が積もる」
「わかってる」
「積もった嘘は重くなる。お前が背負えなくなる前に、俺が潰れる」
「ノクス」
「何だ」
「潰れないで」
ノクスが黙り、耳だけが動いた。
前足が私の膝を一度だけ踏んで、爪は引っ込んでいた。私の記憶が消えたら、ノクスも消える。
相棒が、ただの猫に戻る。
「潰れる」とノクスが言ったのは、嘘の重さだけの話ではない。
「双頭の魔獣ぶんの色もつけろよ」
「今日は二・五倍で決まってる」
「ちっ」
ノクスが喉の奥で低く鳴いて、今度は本当に眠りに落ちていく呼吸になった。
私も横になった。枕元で黒い毛並みが丸くなり、鈴が微かに光っていた。
窓の外で虫が街灯の周りを回っていた。同じような光景を、焚き火の傍で見たことがある。
同じような夜。並んで座っていた。
隣にフィンがいた。虫が火の周りを回っていた。
「あいつら、光があるから飛ぶんだな」。光がなくても飛ぶ、虫はそういうものだ、と答えた。フィンが笑った。「あんたみたいだな」と。
消えた。
指の間から滑り落ちるように消えた。
何を思い出しかけたのか、それすら残らなかった。
代わりに今日の記憶が浮かんだ。カイルの剣が空を切る軌跡。
血。篭手の裂け目。
柄の傷に触れる指。
――大丈夫か。
カイルの声が、まだ残っていた。なぜこの一言だけが消えないのか、わからなかった。
今度の人生では、誰も死なせない。
窓の外で光が走り、一瞬遅れて空気が割れた。
肩が小さく震えて、指先が毛布を握り込んだ。枕元で丸くなっていたノクスの耳が一度だけ動いた。
顔を上げなかった。尾も動かなかった。
ただ、体ごと少しだけずれた。私の腕の方へ。
鈴が小さく鳴った。黒い毛並みが腕に触れた。
「ありがと」
「何も言ってない」
「うん」
もう一度、稲妻が光った。
空が白くなって、すぐ暗くなった。音が追いかけてきた。
指がノクスの背を一度だけ握った。毛の下の小さな骨が指の間にあった。
ノクスは何も言わなかった。目を閉じた。
枕元のノクスの温もりだけが、やさしかった。
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