第107話 港町ハイレドン
白鳥亭の面談の翌朝、ヴィオラが私たちの宿の前に独りで現れた。
荷を一つだけ提げて、「私もハイレドンまでご一緒させていただきます。教皇国内部の動きを伝える窓口として、近くにいる方が早うございますので」と告げた。
カイルが頷いた。トールの顔から血の気が引いた。
ミナがトールの腕を掴んだ。
二人とも固まっている。
「ヴィオラ・カーレンと申します。よろしくお願いいたします」
ヴィオラが丁寧に頭を下げた。トールとミナが同時に一歩下がった。
「ゆ、幽霊じゃなかったんすね」
「幽霊ではございません」
ヴィオラが微笑んだ。トールの膝が震えている。
ミナが小声で「しっかりしなさいよ」と言いながら、自分も半歩引いていた。
シャルロットが二人の背中を押した。
「いい加減にしなさい、失礼でしょ」
ヴィオラは三台目の馬車のルーシェの隣に乗り込んだ。
そこから二日、馬車を乗り継ぎ続けて、港町ハイレドンに着いた。昼過ぎだった。
街道を抜け、最後の丘を越えた瞬間、視界が一気に開けた。
―――息を呑んだ。
蒼い湾の入り口を、二体の巨像が守るように立っていた。灯台だった。
人の姿を象った、見上げた首が痛くなるほどの石像。海に向かって右が剣を構えた男神、左が両手で碗を捧げる女神。
男神の剣の切っ先と、女神の碗の縁から、それぞれ蒼白い焔が空に向かって伸びている。昼間でも数十里先から見えるほど強い焔。魔導機関で焚き続けられている。
「サフィアル交易連合の象徴だ」
カイルの声がした。
馬車の窓から身を乗り出して、二体の灯台を見上げている。
「右が海神アルフ、左が豊穣神メリエ。連合が三百年前に建てたものらしい。船乗りはこの二柱の焔で港の方角を測る」
馬車が坂を下って、街の縁に入った。街そのものが、水の上に乗っていた。
ヴィルヌアのような積層構造ではない。海と街の境界がない。
家と家の間を、まっすぐ切り通された水路がいくつも走っている。
どの水路も湾の中心に向かって伸び、一点に集まっていく。その先には、見事な円形の貯水池があった。
「中央の池に魔素を貯めて、街全体の魔導機関に分配する仕組みらしい」
カイルが指で水路の流れを追った。
「家々の灯り、水門、橋の昇降。全部、ここの貯水池から引いてる。古代の都市設計をサフィアル人が再現したと言われてる」
水路を、小さな船が滑っていった。
櫂はない。船尾の魔導機関が青白い光を帯びて回転している。
波を切る音さえほとんどしない。桟橋には、もっと大きな魔法船が並んでいた。
帆を持たない船体。十数本の腕のような機関が船腹に張り出して、それぞれが低く唸っている。
波の音と機関の唸りが混ざって、街全体が呼吸しているように聞こえた。潮の匂いが鼻を突いた。
湿った風が頬を撫でるたびに、髪の先が塩気を含んで重くなる。
「サフィアルの港湾技術は、噂以上ね」
シャルロットが馬車の反対側から顔を出して、口の端で笑った。
「ヴィルヌアの貴族が魔導機関を導入し始めたのは、ここ五十年。連合は三百年前から海の上でこれをやってる。格が違うわよ」
馬車が桟橋沿いの大通りに入った。両側に並ぶのは、貝殻を粉砕して練り込んだ漆喰の白い建物。
窓の格子は鯨の骨で組まれている。看板には人魚や蛸や星座の意匠が踊っていた。
人混みも違った。サフィアル人の褐色の肌、北の島嶼の蒼い目、東方の交易人の織り柄の衣、エルフの混血と思しき長身。どの顔も、ヴィルヌアでは滅多に見ない種類だった。
ガーレンが御者台から手綱を引いて、馬車を路肩に寄せた。
「お嬢様。宿はこの先の通りです。カイル殿下が先に手配に向かわれています」
ほどなくして、カイルが宿の方角から戻ってきた。
「三手に分かれる。ガーレンと俺で東側の桟橋周辺。シャロは中央の酒場街で結社の噂を拾う。リーラ、お前は西の倉庫街を頼む。ノクスは肩に乗せていけ」
「うん」
シャルロットが腕を組んだ。
「倉庫街は夜に見た方がいい。昼は荷運びの人間が多すぎる」
ガーレンが短く頷いた。
「同感です。偵察は日没後に。それまで宿で休んでください」
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語を見届けたいと思ってくださったら、ブックマークと★で、そっと背を押していただけると嬉しいです。毎日更新しています。




