第106話 「妬けた?」
宿の部屋に戻ると、シャルロットが窓辺の椅子で紅茶を傾けていた。ノクスを膝に下ろして、向かいの椅子に腰を下ろした。
尾の先が、膝の上で一度だけ揺れて、止まる。私だけを意識しているのが、伝わった。
シャルロットがカップを置いて、「少し外の空気吸ってくる」と告げて部屋を出た。
扉が閉まった。
ノクスの口が、微かに動いた。
「あの女、ただ者じゃない」
声はいつも通り、私にだけ届く小ささだった。
「前世の気配がする」
背筋が冷えた。
「前世」
「訊くな。知らんでいい」
ノクスの尾が一度だけ揺れて、止まった。
前足をシーツの皺の上で組み直して、目を閉じた。
――ノクス、絶対、何か知ってる。
問い詰めたかった。でも今日はもう、胸の中に入りきらないものが多すぎた。
廊下に出た。宿の窓から月明かりが差し込んでいる。
冷たい空気が頬に当たって、ようやく呼吸が戻った。足音がした。
振り返ると、シャルロットが壁にもたれて立っていた。腕を組んで、こちらを見ていた。
「あんた、廊下でヴィオラを見送った時、表情、おかしかったわよ」
心臓が強く打った。
「カイルがあの女を、見てた。あんたが、それを、見てた。そんなとこかな」
喉の奥が詰まる。
「シャロ、見てたの」
「ええ。あんたの隣にずっといるから、わかるわよ」
シャルロットの声が柔らかくなった。月明かりの中で、口元だけが笑っている。
「妬けた?」
「うん」
認めた。
声に出した瞬間、喉の奥が詰まって、シャルロットが小さく笑った。壁から背を離して、私の隣に来た。
肩が触れるか触れないかの距離。
「やっと、自分の感情を、認めたわね」
「シャロ、私」
窓の外を見た。
月が屋根の向こうに出ている。通りの石畳が白く光っていた。
「カイルが、好きなんでしょう」
「うん」
声が掠れた。シャルロットが窓枠に手を置くと、月明かりが指の上を流れている。
「私は、応援するわ」
「シャロ」
「わかってると思うけど、私の恋は別のところにあるから。安心して」
口調は軽かった。
でも、「別のところ」という言葉の響きに、重さがあった。
シャルロットが私の方を向いて、目が合った。
月明かりの中で、シャルロットの横顔が柔らかく見えた。
――シャロが、私の隣にいてくれる。
それだけで、強くなれる気がする。
「ありがとう、シャロ」
「姉に礼はいらないわよ。ほら、かわいい妹はもう寝なさい。明日も早いんだから」
シャルロットが踵を返して自分の部屋に向かった。
廊下の角を曲がる直前に、一度だけ振り返った。
「リーラ。あの男は、あんたしか見てないと思う。ヴィオラに目が行ったのは。ただの男の本能。あんたに向ける目とは、全然違う」
それだけ言って、消えた。
廊下に一人残された。月明かりが足元に伸びている。
胸の中の何かは、まだ熱かった。嫉妬は消えていない。
でも、その熱の隣に、もう一つ。シャルロットの声が残していった温かさがあった。
部屋に戻ると、ノクスが枕の上で丸くなっていた。
金色の目が薄く開いて、すぐに閉じた。ベッドに横になって、天井の染みを見上げている。
――恋だ。
もう一度、胸の中で確かめた。
認めてしまったら、戻れなかった。
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