第105話 「今度は、逃げない」
ヴィオラは廊下を歩いていた。足音は立てなかった。エルフ族の足裏は人間より薄く、体重の乗せ方が違う。木の床を踏んでも沈黙のままだった。
階段を降りきった辺りで、足が止まった。振り返らなかった。振り返る必要はなかった。あの部屋に残した気配は、まだ肌の上に残っている。
間違いない。
あの娘で、合っている。何が合っているのかは、口にしなかった。今夜の私はまだそこまで踏み込まない。
気配。反応。古い言語が体の芯に染みついた者だけが持つ、空気の歪み方。それが全部揃っているという確信だけで、十分だった。
でも、なぜ、隠している。
階段の手すりに指を置いた。木目の上を爪が一筋なぞる。昔、同じような気配の人に、声をかけられなかったことがある。塔の麓まで行って、引き返した。あの時の自分の足が、まだ夢に出てくる。
今度は、逃げない。
指が手すりから離れた。
次に二人きりで話せる時が、いずれ来る。その時のための時間を、今夜は与えてくれた、ということにしておく。今度こそ、あの娘の目を、まっすぐ見られる。
ヴィオラは白鳥亭の裏口から夜の通りに出た。深紅の髪が夜風に一度だけ広がって、闇に溶けた。
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