第104話 嫉妬
白鳥亭の二階、突き当たりの個室だった。蝋燭が一本だけ、卓の中央に据えられている。
炎が揺れるたびに四人の影が壁を這った。カイルが入口側、シャルロットが窓際、私がその間に座り、向かいにヴィオラ・カーレンがいた。
深紅の髪が蝋燭の光を吸い込んで、暗い赤に沈んでいる。翡翠の瞳が、炎の揺らぎの中でも色を変えなかった。
黒のローブの襟元に、六芒星を二重円で囲む金糸の刺繍。シャルロットが以前話していた、アルシェロン古紋と寸分違わなかった。
ヴィオラがまず深く頭を下げた。
両手を腹の前で組む所作に、長い歳月が染みついていた。
「本日は、お時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
声は落ち着いていた。低めの女声に、余裕と慎み深さが同居している。
「私、ヴィオラ・カーレン。神聖教皇国アルシェロンの神官として、この四年、教皇国内部に巣食う結社の動きを追ってまいりました」
カイルの指が、膝の上で組み直された。警戒の姿勢は崩さないまま、目だけがヴィオラを捉えている。
「お疑いをまず晴らしていただく意味でも、結社の内部情報を幾つかお渡しいたします」
ヴィオラが簡潔に語った。中継拠点の位置。連絡網の末端の構造。アルシェロンの奥の汚染の広がり方。
一つひとつが、ガーレンの調査と噛み合っていく。
シャルロットが紅茶のカップを卓に置いたまま、眉の間に皺を刻んでいた。
「教皇国内部の中心人物の名は。マヌエル」
空気が硬くなった。
「呪い手として、アルシェロンの奥に潜伏しております」
カイルの喉が一度動いて、「マヌエル」と低く繰り返した。
シャルロットが低く呟いた。
「それ、私たちが掴んでいる名前と一致する」
ヴィオラは頷きもせず、ただ視線をカイルに戻した。
「他にも、結社の動きの予兆や、教皇国内部に結社の手が及んでいる範囲。お伝えできることは多くございます。今後、必要に応じて情報共有できれば、私としても助かります」
カイルが腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「一つ聞きたい。なぜ、教皇国の神官が俺達に協力する」
ヴィオラの表情は変わらなかった。
「教皇国と結社は、別のものです。私が仕えているのは神であり、結社ではありません」
蝋燭の炎が一度大きく揺れて、ヴィオラの影が壁に広がった。
「ヴィオラ殿。信用する」
ヴィオラが深く頭を下げた。金糸の刺繍が光を弾いた。
「ご賢慮、感謝申し上げます」
それから、ヴィオラの視線が、私に向いた。
翡翠の瞳の奥に、もっと深い何かがあった。蝋燭の光ではない。もっと古くて遠い場所から射し込んでいるような。
「リーラ嬢。本日、お会いできただけで、長い旅路の慰めにございます」
胸の奥で、何かが小さく揺れた。この目を知っている気がした。知らないはずなのに。
「いずれ、お二人だけでお話しする機会を頂ければ」
答えは出なかった。頷くことも、首を振ることもできないまま、ヴィオラの翡翠の瞳を見返すだけだった。
ヴィオラが席を立った。三人に向かって深く一礼し、扉に向かって歩いた。
廊下の燭台の光が横から差し込んで、ヴィオラのローブの襟が開いた角度で、白い首筋が、剥き出しになった。
エルフ族の肌だった。人間のそれとは質が違う。磁器のように滑らかで、蝋燭の光を吸い込むのではなく、内側から淡く返している。
カイルの視線が、そこに止まった。ほんの一瞬。ヴィオラの首筋からローブの線へ、カイルの視線が滑った。すぐ戻した。戻した瞬間に喉が一度動いた。
ヴィオラの所作に視線を合わせていたつもりでも、私の視界の端では、カイルの動きだけが見えていた。
ヴィオラがカイルに会釈した。
「殿下、リーラ・ヴェイン嬢を、どうかこれからも、よろしくお願いいたします」
カイルの眉が寄った。
「ああ」
シャルロットにも一礼。
「シャルロット嬢、また、いずれ」
深紅の髪が廊下の闇に消えた。
残った気配は、香りだけだった。足元から、内側に何かが、すっと落ちた。
喉の奥が熱い。呼吸が浅い。指先が震えて、止めようとして止まらなかった。
視界の端に、ヴィオラの白い首筋が焼きついて消えない。あの肌を見たカイルの目。ほんの数秒のことが、胸の奥を抉っている。
カイルが、一瞬だけ、私以外を見た。
―――ヴィオラなんて消えてしまえばいい
わ、私、今、何を
これは嫉妬だ。
侯爵令嬢の教育が、警告を鳴らしていた。嫉妬は恥ずかしい。はしたない。微笑みなさい。呼吸を整えなさい。
唇の端を持ち上げた。笑みの形だけを、作った。
それでも、心臓がうるさかった。肋骨の内側で暴れている。耳の奥まで脈が響いて、呼吸が浅くなって、指先が震えていた。
手を繋いだ時。額を寄せた時。守ってもらった夜。
ああ。
すとん、と何かが落ちた。胸の真ん中に。
――――私、カイルが、好き
鼓動が、止まらなくなった。顔が熱かった。嫉妬の熱なのか、恋を認めた恥ずかしさなのか、区別がつかない。
「リーラ、大丈夫か」
カイルの声に顔を上げて微笑んだ。声に震えが残っているのを、自分でわかっていた。
「う、う、うん。大丈夫」
カイルの手が、肩に置かれた。大きくて、温かかった。外套越しに体温が伝わってくる。
――この温度を、失いたくない。
廊下の角で、シャルロットがカイルと私を見た。カイルの手が私の肩にあるのを見て、少しだけ目を細めた。心配するようなそういう顔だった。
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