第101話 ヴィオラ・カーレン
ハイレドンまでは二日の道のりだった。
半日走った先のマルセオ。南方街道の中継宿場として古くから栄える町で陽が傾き、宿にシャルートを入れた。
マルセオで一夜を明かした翌朝、補給を済ませるためにフィオレと薬種屋へ寄った。カイルが入口に付き添って、通りに目を配っている。
軒先で、乾燥させたセージの束を手に取った時だった。視界の端を、深紅が横切った。
指が止まる。セージの束を握ったまま、体だけが反応していた。
呼吸が浅くなり、肩のノクスの爪が外套の縫い目に食い込むのが分かった。
深紅の髪。
人混みの中で、その色だけが異質だった。亜麻色や栗色や黒が行き交うマルセオの通りで、燃えるような深紅の長い髪が、朝の光を受けて揺れている。
黒のローブ。襟元に金糸の刺繍。六芒星を二重円で囲む意匠。
シャルロットが、以前説明してくれた通りだった。全部、一致する。
隣でフィオレが店主と薬草の産地について話している。カイルは薬種屋の入口近くに立って、通りの左右に視線を配っていた。
深紅の髪の女が、こちらに歩いてくる。耳が長い。
尖った耳の上半分を、髪が半分覆い隠している。
肌は白い。人間の白さとは質が違う。
透き通るような、体温の低い白さだった。翡翠の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
足音がしなかった。石畳の上を歩いているはずなのに、革靴の底が地面を叩く音が聞こえない。
女が立ち止まった。カイルとの距離は五歩。
両手を腹の前で組み、深く、静かに頭を下げた。所作に迷いがない。
背筋が伸びたまま、顎だけを引く。どこかで型として叩き込まれた者の礼だった。
「お初にお目にかかります」
声は低めの女声で、余裕を含んでいた。
「ヴィオラ・カーレンと申します。神聖教皇国アルシェロンの神官にございます」
カイルの手が剣の柄に触れた。
指先だけが柄の端に乗っている。抜くつもりはない。
だが、警戒の色が一段強まっていた。ヴィオラが顔を上げた。
翡翠の瞳がカイルを捉え、次に、こちらに移った。
「ルグランドの第二王子、カイル殿下。リーラ・ヴェイン嬢。ご機嫌うるわしく」
カイルが半歩引いて、身分を呼ばれた瞬間、顎が微かに締まった。
「何の用だ」
声は平坦だった。だが目が動いている。
ヴィオラの襟元の金糸刺繍、ローブの留め具、腰に何も帯びていないこと、足元の靴の汚れ具合。全部を一度に拾っている。
以前シャルロットから聞いていた「深紅の髪のアルシェロン神官、ヴィオラ・カーレン」と、特徴が一致する。
カイルもそれを思い出したのか、剣の柄に触れた指先が一段引き締まった。私もカイルも、詳しい経歴まではまだ知らなかった。
ヴィオラが顎だけを引いた。
「結社。教皇国の内部に巣食う、あの組織のことにございます」
空気が変わった。
「結社」のことだ。
カイルの指が柄の上で位置を変えた。親指が鍔の縁にかかった。
ヴィオラは動じなかった。表情も姿勢も変えず、落ち着いた声を維持している。
「私はこの四年、神官として教皇国内部から結社の動きを追ってまいりました。最近、お二方のご活動と、結社の動きが、重なる場面が増えていると感じております」
肩のノクスの尾が、外套の背中で一度だけ揺れた。
瞳孔が縦に細く絞られて、ヴィオラの背中を追っている。ヴィオラが続けた。
「殿下、私の身分・出自・神官学校の記録、すべてお調べいただいて結構にございます。お疑いを晴らした後、お時間を頂戴できれば、と存じます」
「私はこの街の白鳥亭に滞在しております。お声掛けくださる際は、いつでも」
カイルが数秒、黙った。ヴィオラの目を見ている。
嘘を探す目ではなかった。相手の覚悟を量る目だった。
「話は、改めて聞く。後で連絡を入れる」
ヴィオラの口元が、ほんの僅かだけ緩んだ。安堵ではない。
受理された、という確認だった。
「ご賢慮、感謝申し上げます」
三度目の一礼の後、ヴィオラが身を翻した。深紅の髪が朝の光を受けて揺れ、黒いローブの裾が石畳を擦る音すらしないまま、人混みに向かって歩き始めた。
ちょうどその時だった。通りの反対側から、シャルロットとミナとトールが合流すべく歩いてきた。
ヴィオラがちょうど三人と擦れ違う形になる。トールが顔を上げた。
正面から、深紅の髪のエルフとすれ違う。一瞬の沈黙の後、トールの膝が崩れた。
後ろにストンと尻もちをついて、石畳の上で目を見開いた。
「ひっ、あ、あ、あの」
指が震えながらヴィオラの背中を指した。
「あ、あの、街道の、女幽霊っす! 幽霊っすよっ! あの時の!」
ミナがトールの袖を掴んだ。
「ちょっと待って、あの時の、嘘、本物?」
「だって、距離五歩で消えたんすよ!? 目の前で!」
「消えたっていうか、溶けたんすよ! その場で、すうっと!」
ヴィオラが足を止めた。振り返り、口元を僅かに緩めて、トールに静かに頭を下げた。
「ふふ。次にお会いする時は、お気付きにならないように、いたしますね」
「ひぃっ」
トールとミナが抱き合って腰を抜かした。
石畳に座り込んでいる。ヴィオラはそのまま歩き去った。
人混みの隙間に深紅の髪が沈んで、三秒で消えた。靴底が石畳を叩く音すら、こちらまで届かなかった。
トールが呆然と座り込んだまま、消えた方角を見つめていた。
「また、消えたっす」
「あれ、本当に幽霊?」
ミナもまだ座り込んだままだった。
「っすよね!? やっぱ幽霊っすよね!?」
シャルロットがトールとミナの襟首を掴んで立たせた。
「リーラ、こいつら漫才始めないように、宿に連れ帰るわよ」
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