アガルタの残滓と悦楽の記憶
緒方は、高瀬の肩を支えていた手を軽く跳ね除けるようにして、一歩前へ出た。
彼は一度だけ、高瀬に向けて「すまない」とでも言うような申し訳なさそうな顔で目配せをし、すぐさま顔を正面の立花へと向けた。
「高瀬さんは、不慮の事件で奥さんを亡くされたんだ。……立花さん、あんたがさっき言った『佐伯』という男。強盗と揉み合いになって、息子を事故で刺殺したと言っていたな」
緒方は口に出しながら、脳内に眠る過去の事件記録と、目の前の女が語る状況とを照合していた。
――12年前、強盗に遭って誤って息子を殺害し、失踪した『佐伯』。
――息子を殺してしまった罪から、妻と共に蘇生計画を企てるも失敗し、目を潰した老人『先生』。
もちろん、こんな異世界に鑑識やDNA鑑定などあるはずもない。女の口から語られる状況だけで完全に同一人物だと断定することはできないし、正直なところ確信には至らない。
だが、条件は不気味なほど符合している。限りなく同一人物に近い……いや、だとしても、現実世界の失踪者がこの地獄のような異空間にいるなど、そんな馬鹿な話があるだろうか。緒方の刑事としての理性が、その飛躍した思考を必死に否定しようと警鐘を鳴らしていた。
「……12年前、佐伯宅から逃走したその強盗犯は、その後警察によって特定され、きっちりと立件されていたんだ。だが、捜査資料に残された奴のプロファイリングは、ただの強盗じゃなかった。金目当ての周到な計画犯なんかじゃない……奴は純粋に『殺人』という行為そのものを楽しみ、悦に浸る、異常な快楽犯だった。奴はそのまま行方をくらまし、逃走を続けた」
そこまで語ると、緒方はふと口を噤み、傍らに立つ高瀬の耳元へ顔を寄せた。
「……高瀬さん」
立花には到底聞こえない、息を殺したような小声。緒方がこの話を振ったのには、もう一つ、どうしても伝えておかなければならない切実な意図があった。
「推測でこんな残酷な話をして、本当にすまない……。だが、12年前に佐伯の家に入ったその快楽犯は、その後も常に警察の捜査線上に浮かんでは消えを繰り返していた危険人物だ。……実は、三年前に奥さんの事件が起きた時に追っていた最重要容疑者と、そいつの手口や特徴が、ひどく酷似しているんだ」
「……っ」
直接的な断言こそ避けたものの、それが誰を指しているのか、高瀬には痛いほど分かった。
階段の少し上にいるあの冷徹な男。奴が、佐伯の家族を狂わせ、そして自分の妻をも……。ただの通り魔ではなく、そんな底知れない快楽犯の犠牲になったというのか。
高瀬がギリッと血が滲むほど奥歯を噛み締め、静かに、しかし激しい怒りに打ち震えるのを感じ取りながら、緒方は再び顔を上げ、何事もなかったかのように立花へと視線を戻した。
「……別の事件の快楽殺人犯と、その被害者遺族たち。長く刑事をやってりゃ、偶然の一致に出くわすこともある。だが、この異常な空間で、これだけ都合よく顔を揃えるなんて、いくらなんでも出来すぎている」
「――それに、だ」
緒方は神殿の壁に刻まれた正体不明の文字を睨みつける。
「事件から9年が経った、およそ3年前……山中で一人の女性が保護された。佐伯の妻だ。『夫を助けて、息子を返して』。彼女はそればかりを繰り返していた。一度は行方不明事案として大規模な捜索隊が出たが、何一つ手がかりは見つからず、三ヶ月で捜索は打ち切られた。彼女はその後、精神鑑定で異常が見つかり、今は精神病院に入院しているらしい」
立花はタバコを指に挟んだまま、緒方の言葉を黙って聞いている。
「当時、佐伯の自宅を家宅捜索した際、押収された資料は異様なものばかりだった。『アガルタ』だのなんだの……よく分からん古代の神話にちなんだ書類が、部屋中に散らばっていてな。俺たち刑事の中じゃ、半ば冗談交じりに『こりゃ神隠しだな』なんて笑い話になってたんだよ」
緒方はそこで自嘲するように鼻を鳴らしたが、その顔は全く笑っていなかった。
「……だが、こんな場所に落とされた今となっては、あれが冗談だったのかどうか、分からなくなってきた。あの神隠しが、そのまま現実だったんじゃないかってな」
緒方の呟きが、神殿の静寂に重く響き渡る。
佐伯が追っていた「アガルタ」というキーワード。それがこの狂った世界を指しているのだとすれば、警察がいくら山を捜索しても見つかるはずがなかったのだ。
その話を、少し離れた場所で佐藤と並んで聞いていた榊。
彼は相変わらず無表情のまま、緒方の顔をじっと見つめ返していた。その底知れない瞳の奥に何が渦巻いているのか、誰にも読み取ることはできなかった。




